『日本近代文学』というのは、日本近代文学会の学会誌で、いわば学界で最も権威ある雑誌である。それが十年ほど前からそうなっていたことはだいたい分かっていたが、『文藝年鑑』の石原千秋による文章を読んで、私が思っていた以上に「ポスコロ、カルスタにあらずんば論文にあらず」という状況だったことを知った。石原の文章は、一年半ほど前から編集委員会が変わってその状況を変え、投稿論文数もおかげで増えたが、雑音も多く(要するに、ポスコロ、カルスタにあらざる論文を載せるのはけしからんということをもっといわゆる学生運動的用語で表現したいちゃもん)、しかし編集委員はそれに耐え抜いたとある。編集委員長は松村友視らしい。鏡花研究家の松村、自然主義の攻勢に耐え抜く鏡花のごとくであったということか。しかし、そこまで日本近代文学研究の世界が腐敗していたとは知らなかった。
かといって、石原は実証派ではなくてテクスト派だ。ということはこの時期の日本近代文学研究は、政治派、テクスト派、実証派の三派鼎立だということか。
ちょうど後輩である李建志君が『朝鮮近代文学とナショナリズム』を上梓した。前々から聞いていたのだが、まあいわゆるマイノリティ問題がどうとかいう政治的アプローチによる文学作品分析で、ただし韓国ナショナリズムも日本ナショナリズムもともに批判するというもので、その構想はよいが、90年代以来の、研究者のアイデンティティがどうとか言うアレの、こわばった文体が抜けていない。まず著者紹介に「県立広島大学教員」とあるのが、良くない。李君は「准教授」である。教授だの准教授だのという区別はしませんよという身振りのこの「教員」が、何のことはない、非常勤の人には使えない呼称なのだからまるで偽善だと前に書いたのだが、見ていなかったのか、それとも独自の考えがあるのか。
あとはまあ、個別論だからやらないが、日本でナショナリストと言われている人たちというのは、概してナショナリストではなくてロイヤリストであると、これも私は前から言っている。中島岳志などというのも、このままではロイヤリストになりそうな気がする。なお『パール判事』がインチキ本であることは『正論』に小林よしのりが詳細に書いているので、必読。
まあしかし、李建志が李孝徳よりよほどまともであることだけは確かだ。孝徳、あんなへなへな本一冊出して十年もたつのに、二冊目は出ず。