判型としては新書と同じ岩波少年文庫だが、その古い装丁を若い人は知らないだろう。昔はハードカヴァーの箱入りだった。それが1975年ころに箱なし、ソフトカヴァーになったのだが、今のようにカヴァーはついていなくて、しかも独特の手触りの紙を表紙に使っていた。私はあの頃の装丁がいちばん好きだな。中公新書も、昔はビニール装で、その下に帯があって、味わいがあった。今は新書も文庫もどれもこれも同じような、地味な裸体にカヴァーつきで、面白くないなあ。
その岩波少年文庫でマルシャークの『森は生きている』を読んだら、「バカ」という意味の「天然」が出てきたので驚いた。女官長が「わたくしは天然にぼんやりしておりますわ」と言うと、幼い女王が「そうだろうと思っていたわ、天然だとね」と言う(湯浅芳子訳、1953)。女官長は、自然の美しさにぼうっとなっている、と言ったのだが、女王はそれを「元からぼうっとしている」ととったのだ。
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青来有一の谷崎賞は驚きだなあ。芥川賞からまっすぐ谷崎賞、しかも四冊目の単行本というのは、ちと例がないスピード出世だ。まあ、これは、どう考えたって、笙野頼子への嫌がらせだよね。
しかし原爆ってのは、主題としては安全なんだよね。左翼平和主義者はもちろん、反米右翼や保守派も、日本では「原爆の悪」には文句をつけないからね。『祭りの準備』のような傑作を撮った黒木和雄が、どうして晩年は退屈な反戦映画ばかり撮っていたのかねえ。『明日』なんて、翌日原爆が落ちるって前提がなければ、ただの戦時中日常映画だぜ。
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『文學界』で田中和生が珍しく怒っているが、高橋源一郎らの発言が波紋を呼んでいるようだ。しかし、いくら何でも、芥川賞をとっていない評論家が『芥川賞をとれる小説の書き方』を書いたり、小説を書いていない評論家が、『作家になる方法』を書いたりするのって、珍現象でしょう。相撲の親方になれるのは、幕内力士か、十両を二十場所以上務めた力士だけだ。いくら相撲に詳しいからって、舟橋聖一が親方にはなれないのに。