「監修」の真実

本に「だれそれ監修」と書いてあることがありますね。だれそれは、たいてい大物です。「監訳」というのもあります。これは「何もしていない。名前を貸しただけ」という意味です。
 たとえばサイードの『オリエンタリズム』は、板垣雄三杉田英明監訳、今沢紀子訳、とあります。訳したのは今沢さんです。杉田さんは、論文といってもいい長文の解説を書いています。板垣さんは、何もしていません。
 だれそれ監修、あれこれ著、とあったら、たとえだれそれの名前がどれほど大きく出ていて、あれこれの名前がどれほど小さくても、書いたのはあれこれさんです。だれそれさんは、何もしていません。ですから、「監修」「監訳」とあるのは、その人の書いた本ではありません。「監修」というのは、「大物なので名前を貸した」という意味です。「責任編集」も、それに近いです。国会図書館は、「監修」や「責任編集」を、その人の本と認めないようにしたらどうでしょうか。
 さらに、全集ものの責任編集は困ったもので、中央公論社『日本の文学』が、「谷崎潤一郎(1886-1965)」で検索すると全部出てくる。けれど谷崎先生は編集委員会に一度出ただけで、単に最年長だから代表になっているだけ。また『世界幻想文学大系』などは、著者が誰であろうが訳者が誰であろうが、責任編集の荒俣宏紀田順一郎の著のようになっている。ああいうものは各巻の著者や訳者を標目にするだけでいいと思う。
 (小谷野敦

http://d.hatena.ne.jp/kagami/20070813

キリスト教文化の芸術は日本人には関係が無い(感受できない)みたいなことを述べて、「その通り!」みたいな意見が大勢を占めて盛り上がっているみたいですが、私はこういう風潮に非常に恐ろしいものを感じますね…。

 そうは言ってないのです。「キリスト教徒ではない日本人が、なぜキリスト教を根底にしたものを読んで感心するのか不思議だ」と言っているのです。だから日本人でもキリスト教徒ならいいわけです。しかも「盛り上がっている」といっても、大勢は「カラマーゾフの兄弟」の新訳が売れているわけで、別にそれは恐ろしくないし、ファシズムといえばもう世界中が禁煙ファシズムだし。
 日本が輸入したキリスト教というのはニューイングランドのそれで、カトリック的なものは入っていません。コンドームをつけるのが背徳的だなんて思う日本人はあまりいないでしょ。つまりアメリカですね。ただ、日本が輸入しなかったのは、「親子より夫婦が大事」という思想です。その結果として、子供をベビーシッターに預けるとかできなくて、家庭が子供中心になるから、昭和30年代の家庭道徳が根強くて、だからポルノも売春もヨーロッパに比べて厳しい。
 あとアメリカでは、ドラッグストアで18歳未満に見える子供が大人向け雑誌を見ていると、店主が身分証明書を提示させたりしますが、日本人はそういうことをしない。
 柄谷の『日本精神分析』なんてのは、自分でも、今では認めていないと言っているくらいで、比較文化論の類は、こういう原理でこうこう、と演繹的に説明すると必ず破綻する。いくつもの複雑な事情が歴史的にからみあってこうなっている、ということを精細に言わないと学問にならないのです。
 まあそういうことは私の『恋愛の昭和史』を読むとよく分かるんですが…。