『谷崎潤一郎対談集 文藝編』に、三宅周太郎との対談「文楽を語る」が入っているが、これはもちろん「藝能編」に入るべきもので、「藝能編」を出したあと入手しえたため急遽入れたものである。そのため、文芸編の分量が多くなり、編集者さんは削ったりして大変であった。
さてこの三宅との対談の発見の経緯は、石川巧「幻の占領期雑誌『国際女性』と谷崎潤一郎」(『新潮』五月号)に書かれている。なんでこれが『新潮』に載ったのか私は知るよしもないが、かねて部分的には知られていたがなお三号はどこにもないという雑誌が発見されたというもので、初出未詳だった「疎開日記」の一部もここに発表されていた。なお石川は、三宅との対談が谷崎全集に入っていないと書いているが、谷崎全集は対談などを入れたことはないし、
戦後、谷崎の秘書をしていた末永泉(1922-2007)という青年がいて、『谷崎潤一郎先生覚え書き』(2005)を書いており、姉が国際女性社にいた、としているのだが、名前が書いてなかった。石川論文で、それが末永時恵(1911-)という人で、一時結婚して徳丸姓だったことも明らかにされ、まず時恵が勝山疎開中の谷崎を訪ねて『国際女性』への協力を求めて快諾を得、のち弟の泉が秘書に入ったという順序であることが分かった。
なおこの人は、末永、徳丸双方の姓で翻訳をいくつか出している。石川論文にもあるとおり、この女性はリヒアルト・ゾルゲと親しかったのだが、三度刊行されているアクセル・ムンテというスウェーデン人の本は、ゾルゲから英訳をもらったものだと74年版のあとがきに書かれている。
なお石川は、若い頃はともかく、女性解放運動に関心を示さなかった谷崎がなぜこの雑誌に協力したのか謎だと書いているが、若い頃に関心があったかも疑問なら、『国際女性』は別に先鋭な女性解放運動雑誌ではないし、谷崎は女文士は嫌いだったが、女藝術家は好きだったし、別に謎ではないのでは。