新潮文庫の絶版100冊の奇妙

 青山光二『われらが風狂の師』を読んでいる。変人哲学者として有名なはずだが、ちゃんとした評伝のない土井虎賀寿(とらかず)をモデルにしたもので、青山自身が狂言回しの「菊岡」として出てくる。
 土井については、おもしろいので別途活字にしようと思うが、実は私は「書籍」で読んでいるのではなく、『新潮文庫の絶版100冊』というCD−ROMで読んでいる。ところが、冒頭から、「謄躁豆」「謄躁豆」という不思議な言葉が出てくる。土井は躁鬱病だったので、そのことらしいのだが、「謄」とか「豆」とかいうのは、何だろう。「謄躁豆だ。謄躁豆のどまんなかだ」などとあるのである。ところがコピーして移してみると、「謄」と「豆」が「〓」になる。
 読み進めていくと、「謄魔窟豆」「謄土岐講師豆」とか出てくるので、ようやく気づいた。文字化けなのだ。きっと青山が何か特殊な括弧記号を使っていて、それが化けているのだが、なんでだろう。「豆」というのは、文字化けでよく出てくる文字だ。何しろ、こんな具合なのである。

太宰治野間宏椎名麟三らを謄愛人豆として追いもとめて上京したと、どこかに土岐が書いていたのを菊本は思い出しながら、すると船山馨も謄愛人豆の一人であったかと、あらためて納得するのだった。
 土岐の謄愛人豆の最たるものは太宰治だった。謄愛人豆というより、むしろ謄恋人豆だった。

さっきまで謄ぼく豆と云っていたのが謄おれ豆になり、謄きみ豆が謄お前豆になっている。

ベートォヴェンはいいね。第九の謄歓喜によせる豆のコーラスを、ニーチェディオニュソス的な芸術の代表にあげている

歓喜によせる豆」って・・・。
 追記:図書館で現物を見たら「"」だった。
 ところでこの本には、神保町の喫茶店ランボオ」のウェイトレスをしている鈴木ユリ、すなわち後の武田百合子も出てきて、土井は片思いをして通うのだが、村松友視の『百合子さんは何色』には、この文献は出てこない。見落としたか。
 竹之内静雄の『先師先人』(講談社文芸文庫)にも一章、土井虎賀寿のことが書いてあるらしい。
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 私の文科三類の同級生に、Fという男がいた。いかにも博識で、学者になりそうな男だった。彼は美学科へ進学したが、かなり失望したらしい。多くの学生は、美学科というのが、美術や音楽の具体的な作品を論じないで、過去の哲学者の論文ばかり読んでいるのに驚くもののようだ。彼は、今道友信の影響がまだ残っているとか言っていた。メルロ=ポンティで卒論を書くように指導されて、腐っていた。大学院に行くつもりもあったようだが、すっかりやめて、音楽関係の職に就き、研究室の悪口を書いた卒論を出したという。「美学藝術学」などと古い字を使うのがおかしいとか書いて、面接に行ったら「君は何をしに来たんですか」と言われたという。
 Fは、大学がすっかり嫌になっていて、当時私に「大学の先生になれりゃ、何でもいいんだろ」などと悪態をついた。同じクラスには、いかにも学者になりそうだと言われたのがほかに三人いたが、なったのは一人だけで、うち一人は参議院議員になっている。まあ、これが一番、出世した口だろう。もっともクラス全体では、学者になったのは、七人いる。東大准教授もいるし、慶応の教授もいるし、東京女子大の准教授もいる。
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 「小説新潮」の山本周五郎賞の選評を立ち読みしてきた。篠田節子のみが、森見の文章に対して違和感を表明していた。重松清も、かすかにそんなことを書いていたが、最終的には褒めている。北村薫さんが絶賛しているのが、優しい北村さんのことだから、と思いつつ、北村さんの女子大生シリーズのほうがずっといいのに、と思った。今度こそ直木賞とってください。
 (小谷野敦