越智治雄のことなど

 越智治雄という、日本近代文学専門の東大教授がいた。駒場のほうである。当時、本郷には三好行雄がいて、二人で東大の近代文学を担うかたちだった。吉田精一が短期間いたほかは、当時東大には日本近代文学の教員はこの二人だけだったが、東大嫌いの谷沢永一はこの二人に猛攻撃を仕掛けた。三好のほうは文章での論争になったが、越智のほうは、口頭でやったらしく、どうも資料がない。
 越智は、それから弱って、1983年、53歳で死んでしまった、というのだが、調べてみたら、もともと病弱で、薬をたくさん抱えていたという。顔はハンサムで、黒澤明に俳優になるよう勧められたというのだが、そう病弱では俳優は務まるまい。その病弱が、1976年から特にひどくなったようで、七年間病み続けて死んだらしい。
 東大の「教養学部報」を見たら、田尻芳樹氏が河合祥一郎さんの訳したグリーンブラットの本の書評を書いていた。大昔は、文学研究といえば、作家の伝記を調べてそれを作品に当てはめ、みたいだったのが、「文学理論」のおかげで、伝記関係なしにばさばさやっていたが、また昔に戻った、みたいなことで、田尻君としては少し寂しいらしい。
 けれど、バルトやデリダのおかげで、というのは、ちと違うようで、三好や越智の「作品論」というのは、伝記を参照しているようなしていないような、自分の人生観を論じているような、何ともあやふやなものだった。越智の『漱石私論』なんて、ホントに私論で、学問で私論をやってどうするのだと思えたし、小宮豊隆のほうがずっといいのだ。もっとも、明治初期の研究が越智の本来の専攻だったのだが、講談社現代新書の『近代文学の成立』というのはかつて見たことがないくらいひどい本だった。これも病弱のせいか。
 不思議にも、日本近代文学の研究に関しては、東大はダメである。今の本郷の安藤宏は知らないが、駒場小森陽一であるから、やっぱりダメである。どういうわけか、ちゃんと実証研究のできる人が教授にならない。
 もっとも、日本の諸学問の中でも、日本近代文学というのは、最も悲惨な領分だろう。文藝評論家というのがいるし、メジャーな作家や作品をみなでよってたかって研究するから、しまいには収集がつかなくなる。そのくせ、ちゃんと伝記・実証研究をしている人はいて、しかしそういう人はなぜか不遇である。
 ところで長谷川泉という人は、医学書院の社長をしながら日本近代文学の研究をしていたが、どうも、どういう人だか、よく分からない。鴎外と川端の研究がやたら多いのだが、その題名が、どんどん珍奇になっていった。
森鴎外論考 明治書院, 1962
川端康成論考 明治書院, 1965
森鴎外論考 続 明治書院, 1967
*川端文学への視点 明治書院, 1971
*川端文学の味わい方 明治書院, 1973
*現代文章の味わい方 明治書院, 1974
*近代日本文学の位相 桜楓社, 1974
*鴎外文学の位相 明治書院, 1974
*近代日本文学の側溝 教育出版センター, 1978
川端康成 その愛と美と死 主婦の友社, 1978
*鴎外文学の機構 明治書院, 1979
*鴎外文学の側溝 明治書院, 1981
*川端文学の機構 教育出版センター, 1984
*鴎外文学の涓滴 至文堂, 1984
*鴎外文学管窺 明治書院, 1987
*点滴森鴎外明治書院, 1990
森鴎外盛儀 教育出版センター, 1992
森鴎外偶記 三弥井書店, 1993
川端康成燦遺映 至文堂, 1998
森鴎外燦遺映 明治書院, 1998
森鴎外燦遺映 続 明治書院, 2000
川端康成燦遺映 続 至文堂, 2000
 なんか、「味わい方」とか「機構」とか「側溝」とかいう言葉を、妙な風につける人だったようで、そのネタが尽きると、「涓滴」とか「管窺」とか「点滴」とか「盛儀」とか「燦遺映」とか、よく分からん言葉が飛び出してくる。「点滴」ってそりゃ、医学書院の社長だからそういう言葉が出てくるのだろうが、盛儀とか遺映とか、まるでお葬式だ。「管窺」だって、検査しているみたいだ。そういえば鴎外は医者だし、川端は「葬式の名人」だし、なんかあるんだろうな。
 ところで『長谷川泉自伝』というのがあって、図書館になかったし、安く売っていたので注文したら、何とも中途半端な代物、いくつか自伝的な文章のほかは、写真と雑文の寄せ集めで、年譜さえなかった。
小谷野敦