池内友次郎の晩年

 最近、『人事興信録』を見ることが多い。といっても、好きな女性の父親を探しているのではない。池澤夏樹のところを見ていたら、ふと、東大名誉教授・池上嘉彦先生の項目が目についた。妻××、長男××とあって、夫人が二十歳年下で、東大教養学部卒、東大非常勤講師とあるのに衝撃を受けた。息子は1990年の生れ。池上先生は1937年生れである。教え子と再婚したらしい。
 その昔、ちくま文庫の『アーサー王の死』の訳者、厨川文夫と厨川圭子が、年齢差17くらいあったので、兄妹かなあなどと思っていたが、夫婦であった。
 その程度で驚いてはいけない。浅利慶太野村玲子と結婚している。28歳年下だ。私はてっきり浅利氏が夫人と離婚できずにいるのだと思っていたが、それはどうなのだろう。ゴシップ好きのウィキペディアも教えてくれない。江馬修と天児直美の、50歳違うカップルが一番凄そうだが。
 藤間紫は、元の名河野綾子。子供の頃のあだ名は「ピアちゃん」だったという。なんだかかわいいが、色が黒くて目が大きいので、エチオピアのピアだという。当時、エチオピア王子が日本女性と結婚するという話題があったので、そう呼ばれたのだろう。12歳の時、藤間勘十郎に入門し、天才舞踊少女と呼ばれ、16歳で「紫」の名を貰い名取となった。他の弟子はみな「勘」の字がついた名を貰うのに、である。
 そして21歳の時、24歳年上の勘十郎に求婚されたのだが、勘十郎は前妻との間に娘が一人いたという。しかも、紫には指輪を与えて左手の薬指にはめさせ、その一方で、紫は若すぎるというので姉の方に求婚し、断られたので紫へ戻ってきたというが、紫と名付けるあたりから、既に光源氏気取りである。
 しかし、何といってもすごいのは池内友次郎である。高濱虚子の次男にして作曲家、しかし音楽家としては大したことはなく、父の威光で東京藝大音楽学部長まで務めた人で、昔の『楽典』は池内著だった。これが、最初の妻を亡くしたあと、38歳年下のピアニスト遠藤郁子と結婚している。遠藤は藝大中退後、海外でキャリアを積んでから藝大に入り直そうとして池内に相談に行ったら結婚することになり、北海道の両親に連れ戻されて軟禁され、父親は「相談に来た学生を誘惑するなんて許せん」と刀を研ぎ、遠藤は「私が誘惑したんです」と言ったという。
 しかしようやく一緒になったら、池内は遠藤を正座させて平手打ちをくりかえし、ボクより前に男とつきあった話なんかしたのが許せないと言ったそうで、池内の学生への平手打ちは有名だったそうである。その晩年、遠藤が乳ガンの手術をしている間に、池内は大往生したという。遠藤は今も力強いピアノで活躍中である。これは遠藤の『いのちの声』(海竜社)に書いてある。なおここには「池内友次郎」の名は出てこないが、池内の話し方の気持ち悪さがよく再現されている。
 池内の人格が悪いのは音楽界では定評があったようだが、音楽家には幼児のまま大人になったような人が多い。山田耕筰は最初に結婚した時、当時つきあっていた藝者と、新妻の前でやってみせたという。その後離婚してその藝者と結婚したが、別の愛人ができ、文化勲章授章の際、正妻は病気で、あれは夫人同伴で陛下の前に出るからと言って離婚届に判を押させ、愛人と結婚してしまった。