(削除されたがアマゾンのレビューで田中貴子繁田信一の悪口を書いていた)
 繁田信一は、『本郷』2006年9月号所載の「陰陽師と四神相応の地相」で、平安中期の『雲州消息』から、因幡藤原氏から一陰陽師に宛てた手紙を引いている。そこでは、入手した山荘について、四神相応の地相はどうか、と問うている。繁田はここで田中貴子を批判する。田中の『安倍晴明の一千年』(講談社選書メチエ)に、平安京を四神相応の地として理解することが始まったのは、福原遷都の時だとあり、

 田中氏の場合、平安時代中期の陰陽師について、彼らが風水師のような働きをしていたことを認めようとはしない。例えば、当該期の陰陽師たちを代表する存在である安倍晴明について、「天文博士であった彼の職掌には風水的な要素はほとんどなかったといってよかろう」と断じる如くである。

 として繁田は田中説を否定する。
 ところが、田中著92pには、「平安時代陰陽師が風水師のような職掌を持っていたことは間違いない。しかし、この時代の日本人はそれを風水と呼ぶことはなかったのである」とあり、「安倍晴明の場合、天文博士であり、後に蔵人所陰陽師として天皇にじきじきに仕えたせいか、貴人の邸宅や墳墓の場所を占った痕跡は、歴史資料にも文学資料にもうかがうことはできない」とあって、繁田が引用のごとくに引いた通りの語はない。かつ、繁田の文章の前段は明らかに田中著の誤読である。また後段は、誤読ではないが、晴明個人について述べられたことであって、前段の陰陽師一般の話とは別ものであり、『雲州消息』を持ち出しても、田中説がおかしいことにはまったくならない。
 従って繁田による田中批判は誤読の上に成り立っている。だが、それを雑誌に書いたから卑怯ということはなかろうし、田中はアマゾンレビューに厭味な文章を書くより、しかるべく反論すればいいだけのことである。