山下悦子の思想と個人崇拝

 東京裁判のとき「あなたと東条の間に思想的対立があったそうだが」と尋ねられた石原莞爾が、「東条には思想などというものはない。ないから対立するはずがない」と答えたのは有名な話だが、山下悦子にも思想などというものはない。今の若い人は、十五年くらい前にどかどか出た山下の雑な著作など読んでいないだろうが、単に上野千鶴子を叩いて名を挙げようという「思想」があっただけで、必要もないのに丸山圭三郎浅田彰が出てきて、ひたすらニューアカ・ブームの尾っぽに載ってマスコミ出世しようという意図が透けて見えるばかりで、高田里恵子など一歩間違ったら山下になっていたのではないかと思われる。『マザコン文学論』を出したあとで、青野聰の「母よ」にからめての文藝評論を『群像』に書いて、谷崎の「母を恋ふる記」が何の屈折もなく母恋いを綴っているのに対して青野は云々と書いて、翌月の「侃侃諤諤」で、谷崎作品はかなり屈折しているのに山下はなぜこんなことを書いたのか、という試験方式で揶揄されていたが、屈折どころか「母を恋ふる記」の内容は全然「母を恋ふる記」ではないのである。むしろ「天ぷらを恋ふる記」である。正解は「読む暇がなかったから」だろう。
 さて私と「週刊読書人」で対談した山下は、まだ若くて今以上に手加減を知らなかった私が、ここがおかしいあそこがおかしいと指摘すると、沈黙のあと「あたくしやっぱり帰らせていただこうかしら」と立ち上がり、「こんなの初めて」と、一般雑誌のにこやか対談と間違えているようだった。今の私なら、どうぞお帰りなさいと言いかねないが、懸命になだめて話を続けた。山下は、私が「母性社会論」に疑念を呈すると「河合隼雄先生のような方もおっしゃってるし」と権威主義ぶりをあらわにして私と編集者を呆れさせ、「そういう風に理屈でなんとかしようというのは、青いと思います」と私を侮辱し、私が「結婚披露宴でも、未だに、何々家と何々家、なんてやってますよね」と言うと、山下、ここぞとばかりに「それね、私と彼の結婚式の時はね(山下は夫を一貫して「彼」と言っていた)、それをやらなかったんですよ。そしたら来賓の一人が、家を無視するのはけしからん、って言い出して、でも彼の方の出席者のなんたらかんたらのえらい人が、いやこれはすばらしいことだ、って言ってくれて」と満面の笑顔で延々自慢話を始めるので、これはどういう女かと唖然としたのであった(やっぱり週刊誌の和気藹々対談と間違えていたのである)。カメラマンが写真を撮っていたのだが、山下は「写真ですけど、私にセレクトさせてくださらない?」か何か言っていた。当人、才色兼備のつもり十分だったらしいことが、当時の『現代』の「日本のホープ」というグラビアに載った写真を見るとよく分かる。編集部では何とか形にしようとしたが、ゲラを見た山下が、これを出されたら困る、というので没になった。
 しかしその後ほどなく消えていった山下が先ごろ十年ぶりの著書を出したので、少しはましになったかと思っていたら全然ダメで、しかも『諸君!』で、紀子さまのご出産について、第一子より男子を優先して、などと書いているのを見てすっかり嫌になった。もちろん山下に、近代的人権思想への懐疑があるならいいのだが、そんなこと全然考えていないだろう。
 さて別の話だが、浅田彰がたまたま褒めたというので鎌田哲哉の論文をはてなキーワードにしてしまったり、単著もないのにミクシィに鎌田コミュがあったりするのを見ていると、こういう連中が文化大革命時代のシナに生きていたら手に手に毛沢東語録をふりかざす紅衛兵になっていたのではないだろうかと思われてならない。まあ二十代のうちに個人崇拝に陥るのはある程度やむをえないが、三十過ぎて浅田だ柄谷だとやっていたら、それは先天的治療不可能的バカである。

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 ついでに高田里惠子だが、高田は中野孝次の小説で、自分の父親が大工であると言えない東大生を描いているのに対して、「小説の読者は、二十歳を過ぎた大人がとる態度としては異常なこだわりを感じざるをえないだろう」と書き、私は批判したが、木下惠介の「二人で歩いた幾春秋」という、「道路工夫の歌」を原作とした映画で、息子の大学生が、ぼくの父は道路工夫なんだ、と言うと、ガールフレンドの倍賞千恵子が「びっくりする」場面があって、私は観ていてびっくりした。高田はこれを観るように。なお柄谷の実家は柄谷工務店という金持ちであると、これは高田本人から聞いたことだ。斎藤美奈子が高田著を絶賛できたのは、斎藤が新潟大学名誉教授で、宮澤賢治論の著作も多い斎藤文一の娘という「お嬢様」だからである。それに比べると、自身は大会社社長の息子でありながら、江藤淳の家系自慢を批判し、「神田の電気職人の息子だった福田恒存はどう思っただろう」と書いた坪内祐三は、さすがである。