ベストセラーになった『サピエンス全史』などのユヴァル・ノア・ハラリは、動物保護にも熱心なようだ。東大准教授の村上克尚の『動物の声、他者の声: 日本戦後文学の倫理』は藝術選奨新人賞を受賞した。「種差別」などという言葉も耳にして、どうやら最近では動物を差別してはいけないという言説がブームにでもなっているのだろうか、と思っていた。二、三十年もたったころには、動物をペットにすることさえ非難される世の中が来るのだろうか。動物園は動物虐待なのだろうか。
ドキュメンタリー映画『ザ・コーヴ』は十年前のものだが、米国の、シー・シェパードのような動物保護思想の立場から、和歌山県太地のイルカ漁をとりあげて批判したもので、物議を醸した。反論として八木景子が作った『ビハイン・ド・ザコーヴ』は、米国の陰謀論になってしまっていた。
本書は、比較文学者である著者が米国の大学に提出した博士論文をもとに、こうした問題を、シートン動物記、星野道夫、『ザ・コーヴ』の三題噺風に再構成したものだ。日本ではなぜか位相の違う『ファーブル昆虫記』と並べて児童文学として読まれているシートンは、本国の米国やカナダではあまり読まれていないということから、二十世紀初頭、シートンやジャック・ロンドンが、動物の記述が科学的事実に基づいていないと
して批判されたことや、「ナチュラルスタディーズ」というものが唱えられたことが詳細につづられていく。次はアラスカで活動し、ヒグマに襲われて死んだ写真家・星野道夫についての章だが、自然の中で生きたと紋切り型で賛美されがちな星野の、自然や動物に対する紋切り型とは違う思考と、それへの批判を並べて見せている。
最後の章が『ザ・コーヴ』をめぐる章で、人間にとっての鯨・イルカのイメージを歴史的にたどり、ヒッピー文化からニューエイジへの過程でイルカがアイコンになり、多くのSF小説がイルカを主題にしたことに触れる。彼らは、鯨やイルカは知能が高いということで愛好するのだが、「知能が高いから殺してはかわいそう」という論理を人間に当てはめたら大変なことになると私は前から思っている。
そして著者は、アングロ・サクソン民族の白人エリートが、いまだに動物の肉を食べる野蛮人を作りだそうとしているのではないか、と述べつつも、それは仮説であると強調している。しばしばこうした話題になると、日本文化のアニミズムが、などと言い出して西洋との違いを述べ立てる人が学者でもいるのだが、著者は比較文学が専門なだけあって、そういう陥穽には落ち込まず、日本にも西洋にも多様な層と歴史的変異があることを見失っていない。
動物保護運動をする者たちは、どうやって生計を立てているのか不思議で、要するに金持ちの道楽という一面がある。それが本書の題「快楽」につながっているのだろう。『ビハインド・ザ・コーヴ』でその一人は、動物は殺すべきでない、と述べたあと、ゴキブリは、と言って口ごもっていた。もし「自然」であるべきだと考えるなら、肉食獣が他の動物を食べるように、人間も他の動物を食べて差し支えないはずで、動物保護
の論理は破綻している。
英国貴族の狐狩りやスペインの闘牛と、食肉とは別のものだ。本書のあとで、南アフリカ出身のノーベル賞作家クッツェーの『動物のいのち』を読むと、魂だの神だの西洋人の枠組の中でしかものを考えず、ナチスを持ち出せば人を納得させられると考える西洋中心主義が見事におちょくられているのを感じる。この先にはヴィーガンという菜食主義につながる思想もあるのだが、植物も生命だと言われたら彼らはどうするのだろう。
(小谷野敦)