谷崎潤一郎詳細年譜(大正12年まで)

jun-jun19652005-06-05

1921(大正10)年      36
 1月、『潤一郎傑作全集』全五巻を春陽堂から刊行。
 1・2・4月、シナリオ「月の囁き」を『現代』に連載。
 谷崎はせい子と高橋の結婚を纏めようとするが、土壇場で高橋が女優・紅沢葉子と逃げ、成立せず(瀬戸内)。
   22日、佐藤が小田原へ来て千代に会う。その日、千代、東京へ出る。
   23日、佐藤も上京。
   25日、佐藤が小田原へ戻ると千代から電話が二度掛かったと聞く。待っていると千代から電話掛かり、二三日うちに行くと言われてがっかりする。
   28日、佐藤、千代に長い手紙を書く。
   29日、佐藤、続きを書く。長い恨み言。
   30日、千代から佐藤に、佐藤が小田原にいることを谷崎に打ち明けたと知らせてきたらしい。佐藤、千代からの便りに嬉しくなる。
   31日、朝、佐藤、千代が来ないかと海岸のほうを見る。それから白秋のところへ行って話す。夜、手紙の続きを書く。長い。寝て、千代と夫婦になった夢を見る。
 2月、精二『水のほとり』を隆文閣より刊行。
   1日、千代、春夫に会いに小田原へ行く。短い逢瀬だが、佐藤、喜びを感じて前の手紙に書き足す。
   3日、千代、せい子とともに会いに来るが、佐藤に色よい返事を与えず、夜、佐藤、再び恨み言を書き足す。
  佐藤はいったん新宮へ帰って傷を癒していたか。
   12日、大本教弾圧事件あり、谷崎がシナリオを書いていた「邪教」は製作中止となる(終平)。
   20−23日頃、「私」を『改造』3月号に発表。
 3月、「不幸な母の話」を『中央公論』に発表。『鮫人』が中絶したので代わりに出したもの。シナリオ「雛祭の夜」を書き、撮影。
 同月、荷風「雨瀟瀟」を発表、谷崎読んで「氏の孤独陰惨な境涯をお察しして思はず慄然とした」(「「つゆのあとさき」を読む」)。
   5日、芥川小田原行き。来訪か。
   19日、芥川、支那旅行に出発。
   20日、『雛祭の夜』、栗原喜三郎監督、谷崎鮎子主演、葉山三千子助演で、浅草千代田館で封切。
   20−23日頃、佐藤春夫「抒情詩鈔」を『改造』4月号に発表。
   24日、江口章子が翌日上京と聞き、東京の池田方へ書簡(ただし池田林儀は既に渡独)
 4月、精二、片上伸の推薦で早稲田大学文学部非常勤講師となる。また『恋愛模索者』を新潮社より刊行。文化学院創立。
 同月、北原白秋、佐藤菊子と結婚。
   2日、千代、鮎子、せい子とともに千代田館へ。川端康成(23)の近くに座る。川端はせい子と東光宅で会ったことがあり、千代とは有楽座で会ったことがあり、何となくお辞儀をする(川端日記)
   5日、京都の江口章子宛書簡で、千代への手紙を見た、25日頃上京と聞いていたがいつ頃になるか云々。
 4月から7月まで、シナリオ「蛇性の婬」を執筆、製作。
 4月13日、三千子主演「出帆前怪指紋」、栗原監督で封切。
   同日、佐藤、『殉情詩集』序に「情痴の徒と呼ばるるとも今は是非なし」と書く。 5月11日、三千子出演「喜撰法師」、栗原監督、浅草千代田館で封切。
   13日、ドイツ映画『カリガリ博士』封切、観る。
   14日、伊勢、長女道子を産む(細江)。谷崎、離婚するなら子供が一人くらいの内に戻れ、と言う。
  「「カリガリ博士」を見る」を『時事新報』に発表。
   20日頃、谷崎から東京青山の佐藤宛、会いに来いとの葉書。
   21日頃、佐藤、行かないと返事。
   25日、佐藤から千代宛書簡、先日のやりとりについて、別に必要はなかったのではないか、自分はあなた方と絶交する気はまだないが、ただの友達とは思わないでくれ、と冷淡な調子。
   28日、佐藤宛書簡、佐藤からの書簡への返信で、この間のような「ゴマカシの和解」でなく、もう一度話し合いたいと。  
   30日、佐藤、谷崎宛に長い手紙を書きかけるが、夜七時になって、改めて短く書き直し、谷崎を批判し、しかし返事を待つ、と書くが、さらに夜十二時、やはり絶交であると書き、千代宛にも、谷崎に絶交状か挑戦状を書いたのであなたとも敵味方になる、と書く。
 6月から10月まで、栗原トーマスが手を入れたシナリオ「アマチュア倶楽部」が『活動雑誌』に連載される。
   6日、佐藤宛書簡。せい子から、佐藤が今回の事件を発表すると聞いたが、勘弁してほしい、ゴマカシの和解では仕方がないが、もう一度話し合いたい。それでダメならキッパリ絶交するほかない。
   7日、朝、佐藤、谷崎宛書簡、君はおせいにかつがれている、自分はまだゴマカシの和解を続けていたい、返事を待つ。
  この頃、江口章子再び訪ねてくる。
   9日、佐藤宛書簡、留守中にやってきてせい子の監督が足りないだの伯父さんのような口を利かないで欲しい、会いたいなら会う、など。
   10日、佐藤宛書簡。なるほどせい子を信じたのは軽率だった。章子が来ているので、落ちついたら来てくれれば相談しよう。
   15日、「AとBの話」脱稿、締め切りに遅れたので八月掲載。
   16日、佐藤宛書簡。『人間』に記事が出たのを読んだ、気にしないほうがいいが、文壇というのは下劣な連中の集まりだ。(『人間』6月号に演劇に関する座談会で、谷崎と佐藤が評されている)精二にあまり話しに行ったりしないでくれ、ゴマカシの和解でもいずれ真の和解になるかもしれない。章子はまだ一週間くらいいそうなので話し合いは二十日か二十五日になるだろう。
   18日、千代宛佐藤の手紙を見た谷崎、怒りの手紙を佐藤に書く。
  佐藤、文化学院へ行って与謝野夫妻に会うと、白秋からもいろいろ聞いているからすべて語れと言われる。
   19日、佐藤、千代に手紙を書いたらしい。
   20日、佐藤、谷崎宛書簡、文化学院のこと、精二のことなど。
   21日頃、佐藤、また書いて出したらしい。「貞操論」があったり、谷崎が自分を「臣下」扱いにしているといった文言があったらしい。
   22日、谷崎、箱根から帰ってきて佐藤の手紙を見、怒りの返信。千代もまた佐藤の手紙を尋常でないと思っている、会うなら東京で会おう、云々。
   23日、朝、追って佐藤へ書簡、君が僕に近づいたのは文壇へ出る手段ではないか、また千代がいたからではないか、云々。これに佐藤の返信あり。
   30日、谷崎、再度の和解を申し出る手紙を書く。「アオザシ」の伯父が危篤だとか、帝劇の「お艶殺し」の稽古やで忙しい、云々。佐藤、絶交状を書く。(アオザシの叔父とは、『刺青』が出た時に「潤ちゃんのアオザシってのはどういうことが書いてあるんだい」と訊いた無学な株屋の叔父のこと。江澤藤右衛門か)
 7月、「鶴唳」を『中央公論』に発表、『異端者の悲しみ』を千山閣から刊行。現代脚本叢書第三編『法成寺物語』を新潮社から刊行。佐藤春夫『殉情詩集』(12日)刊行。  
 「蛇性の婬」撮影で京都へ行き、その美に感じるところあり。
   中旬、せい子は里見紝宅へ行き、中戸川吉二が来て四人で花札、中戸川の横に寝る。
   20日頃、芥川帰京。
   20−23日頃、「AとBの話」を『改造』8月号に発表。
 8月、「「カリガリ博士」を見る」を『活動雑誌』に再録。同月、里見弓享、小田原の谷崎家が空くというので借りるつもりで訪ねるが留守(「遠方から見た谷崎君」)
   20−23日頃、追憶記「生れた家」を『改造』9月号に掲載。
 9月、「廬山日誌(廬山日記)」を『中央公論』に掲載。小田原から横浜へ通う不便もあり、横浜市本牧宮原八八三番地に転居。隣にはフランス人のエマールという独身者が住む。後ろ隣にはポルトガル人のメデイナ一家はダンスの先生だったがほどなく居留地へ移り、後へ岡田という江戸っ子の一家がきた(「港の人々」)。左隣にはロシヤ人のボリス・ユルゲンスとその愛人のY子(16、7)。その後ろにはトーマス栗原。その向こうが代表的卓袱屋(外国人相手の西洋料理屋、売春も営む)キヨ・ハウス。一家をあげてダンスに熱中し、ロシヤ人のワシリー・クルッピンにダンスを習い、派手な西洋風の生活を送る。終平がたびたび遊びにきて、近所に住む三つ年下の白系ロシヤ人の少年アレクセイと遊ぶが、この年米国へ移る(終平)。
   6日、丸の内有楽座で、谷崎脚本、栗原監督、大活『蛇性の婬』封切。高橋英一主演。
 同月、帝劇で「十五夜物語」上演、幸四郎
   7日、土屋計左右に長男計雄誕生。  
   30日より厨川白村(41)「近代の恋愛観」、『東京朝日新聞』(遅れて大阪でも)に連載開始、大反響を呼ぶ。
 10月、『AとBの話』を新潮社から刊行、「検閲官」を収録。
 同月頃、辻潤(38)が訪ねてきて話していると地震(「九月一日前後のこと」)
  Y子のところへせい子が出入りして遊ぶ。
 11月、「十五夜物語」、有楽座で上演。「或る調書の一節」を『中央公論』に、談話「『十五夜物語』について」を『演藝画報』に掲載。佐藤、「秋刀魚の歌」を『人間』に発表。
   2日、三千子主演、栗原監督「煙草屋の娘」封切。同月、大正活映が不振のため営業方針を変更したので、関係を絶つ。松竹に買収されたという。
 Y子、谷崎一家と親しくなり、千代ら、その将来を心配する。
   20−23日頃、「愛すればこそ」(第一幕)を『改造』12月号に発表。
 12月か1月、ボリスとY子は山下町へ転居してしまうが、Y子はたびたび遊びに来る。   20−23日頃、「或る罪の動機」を『改造』新年号に発表。
 この年、帰山教正監督「濁流」、三千子出演、映画藝術協会、封切。

1922(大正11)年     37
 1月、「堕落(愛すればこそ・二・三幕)」、随筆「支那趣味と云ふこと」を『中央公論』に、感想「女の顔」を『婦人公論』に、「読むことすら嫌ひ」「小説も活動写真にも力を注ぐ(予が今年の計画)」を『新潮』に発表。1・2月、「奇怪な記録」(未完)を『現代』に連載。
   11日、大徳寺江口章子宛書簡で、原稿落手、いずれ春陽堂から稿料届く。
 同月、『近代の恋愛観』、改造社より刊行、ベストセラーとなる。
 2−4月、シナリオ「蛇性の婬」を『鈴の音』に発表。
 2月19日、『人間』編集長松山敏(悦三)宛速達、金星堂から随筆集を出すにつき百五十円の前借頼む。
   20−23日頃、「青い花」を『改造』三月号に発表。
 3月、戯曲「永遠の偶像」を『新潮』に発表。市村座の長田から、菊五郎一座で上演したいという申し出。
 精二、『ある姉妹』をアルスより刊行。
 春、古木鉄太郎(22)、本牧を訪問、原稿を催促、千代の妹すゑを知り、のち結婚する。
 4月、戯曲「彼女の夫」を『中央公論』に発表。同月、室内劇第四回公演として牛込飯塚友一郎邸で上演。同号に佐藤春夫「侘しすぎる」発表。金星堂名作叢書『恐怖時代』を金星堂から刊行。
 同月、横浜中心に地震。精二訳『女の一生』、『モウパッサン全集』の一として天佑社より刊行。
   21日、永見徳太郎宛書簡、手紙を貰った返信で、永見のことは芥川、吉井、長野草風から聞いている。いずれ訪問したい。「お申し越しの原稿」は中央公論社へ問い合わせているが、誰かの手に渡っていたら別のものを差し上げる旨。
   26日、永見宛書簡、カステラのお礼。短冊や団扇も書いた云々。書を請われたらしい。
   28日、松原伝吾の紹介で訪ねてきた赤沢義人に示された、早逝した藤原寅雄の遺稿集の序文を書く。箱根堂ケ島にて、とある。
 5月、感想「頭髪、帽子、耳飾り」を『婦人公論』に、談話「感覚的な『悪』の行為」を『演藝画報』に掲載。ヴェストポケット傑作叢書第十三編『麒麟他二篇』、同第十四篇『金色の死』を春陽堂から刊行。同月、萩原朔太郎『新しき欲情』刊行、1日、送ってくれたそうだがまだ届いていないという礼状を萩原に書く。
  精二、『誘惑』を天佑社より刊行。
 同月、大阪のプラトン社から『女性』創刊。
 6月、戯曲「お国と五平」を『新小説』に発表、戯曲集『愛すればこそ』を改造社より、金星堂名作叢書12『神童』を金星堂から刊行。市川左団次企画の「堕落(愛すればこそ)」本郷座での上演は禁止される。この月より翌年1月まで、荷風「二人妻」を『明星』に連載、谷崎嘆賞す。『愛すればこそ』はベストセラーとなる。恐らく白村の本の影響による恋愛熱の高まりによるもので、「愛すればこそ」は流行語にもなる。なお当時精二が愛人を作り、家庭が揉めていたが、谷崎はこの本の印税を改造社へ精二に受け取りにいかせ、その金を愛人との生活の足しにさせようと計らったが、精二は律儀に届けてきた(今東光『十二階崩壊』)。同月、精二の中編小説『明暗の街』、新潮社から刊行。
   30日、永見宛、葉書への返事、「お国と五平」の原稿が戻ったので小包で送った旨。永見夏汀様、とある。
   20−23日頃、戯曲「本牧夜話」を『改造』7月号に発表。エミイ・ローウェルのLegends(1921)を引用。バー・サンスーシのマダム、横浜オルガン屋の未亡人・矢崎千代子と浮名を立てられる(安田敏也「文士画家二号列伝」『犯罪科学』1932,2)
 7月、感想「縮緬とメリンス」を『婦人公論』に発表、妹の写真を波多野秋子の勧めで同誌に出し、解説文を寄せる。ヴェストポケット傑作叢書第十八篇『お国と五平他二篇』を春陽堂から刊行。
   9日、森鴎外死去(61)。同日、中根宛書簡、「お艶殺し」「お才と巳之介」の件は以前和田氏と木呂子(斗鬼次?)氏から話はついたと聞いていたので意外。明日早速和田・木呂子両氏に会って問いただし参上する。
 帝国劇場で自作「お国と五平」を演出。お国・河村菊江、五平・阪東寿三郎、友之丞・十三世守田勘弥。警視庁の検閲係に多くの台詞を削られる。検閲係の三木と会って話す。   11日、日本橋若松で「お国と五平」合評会。谷崎、荷風、小山内、岡田八千代、万太郎、周太郎、伊原青々園岡鬼太郎、久保田米斎。
 8月に「永遠の偶像」を尾上菊五郎一座で上演予定だったが、検閲であちこち削られたため、長田、帝劇の今城と、警視庁へ行って、三木、林警部と面談。笹井幸一郎保安部長から、中止してはと勧告されるが、それならはっきり禁止してくれ、と言う。
 同月『新演藝』に「お国と五平」合評会掲載。
   10日、中根宛書簡、戯曲全集のことは了解したが春陽堂版権のものがあるから注意、また改造社で印刷中のものはできるだけ後回しにする。それから『新潮』の水守氏に、原稿ができないと伝えてほしい、この暑さで書けずまた家付近は海水浴客が毎晩うるさい。
 下旬、台風のため家が被害を被る。
 9月、談話「『永遠の偶像』の上演禁止」を『新演藝』に掲載、インタビュー「脚本検閲に就いての注文」を『演藝画報』に掲載。
   15日、ルビニ夫人来訪、神戸へ声楽教師の職を見つけ、10月1日に出発するが、最後の音楽会の周旋を頼むと言ってくる。谷崎の聞いたところでは横浜の人皆夫人には困らされている。金のために音楽会をやりたいらしいが、ゲイティー座へアンナ・パヴロワが来るし本居氏の会があるし、成功は覚束ず、それを伝え、いくら金が欲しいのかと問うと四百円要るという、有島生馬(41)に頼むとも言うが、ほかに小野哲郎くらいしかなく、三人で二百円と思ってくれと話す。箱根ホテルへ投宿。
   16日、箱根ホテルから有島生馬宛書簡、先夜は帝劇で会いましたがお話もせず、さてルビニ夫人について、二百円の三分の一を送ってくれまいか。あと五、六日こちらにいる。
   27日、生馬宛書簡、お手紙拝見、事情はよく分かりました(金がない?)、今明日中にルビニ夫人に会うので伝えておく、マリアさんは立派な旦那があるのでホテルへ別居し、近日北海道へ行く由。
   28日、中川紫郎監督『おつやと新助』(帝国キネマ演藝)、大阪老松座で封切り、主演、実川延松・嵐笑三。
 この年か、終平、早稲田中学に入学、牛込弁天町の精二の許に居候するが、しばしば潤一郎を訪ねる。
 10月、「私のやってゐるダンス」を『女性改造』に掲載。
 同月、台風の被害のため、横浜市山手二六七番Aに転居。谷崎が英語を習っているマラバー姉妹が住む家を借りた。ヘンリー小谷という米国帰りのカメラマンの二世の夫人に、谷崎、東光、花柳章太郎(29)が熱中。
 11月、談話「稽古場と舞台の間」を『新演藝』に発表。「アヱ゛・マリア」を執筆。これより前、セシル・B・デミルの「アフェアーズ・オヴ・アナトール」を観る。
 この頃、里見、吉井、幇間某氏が来たので聘珍楼に案内すると「多情仏心」の聨が掛かっており里見が感心、12月より『時事新報』に『多情仏心』の連載始まる。
 12月、精二「曽根の死」を『中央公論』に発表。
   20−23日頃、戯曲「愛なき人々」を『改造』新年号に発表。
   24日、谷崎とせい子、梶原覚蔵に招待されて五十番の食堂へクリスマス・パーティに行く。せい子はチャイナドレス。お千代さんという美人の女将と愛人の内藤らと踊る。九時半にオリエンタル・ホテルの舞踏会が始まり、フランス人のピエールがせい子を待っているというので三人で行き、夜中の二時三時まで踊り狂う。
   31日、ニュー・イヤーズ・イヴの仮装舞踏会がグランド・ホテルで徹夜で行われるので、千代と二人で出掛ける。撮影技師のアイリッシュと親しくなる。
  中西、失職して事業を始めるがこれも失敗、借金苦。
 この頃、精二の姑癌で没するが、精二が遺骸を引き取るのを拒否、郁子の妹夫婦が池袋にいたので、郁子と終平で、遺骸を乗せた車を押していったという。
 この年、ドイツ映画『オセロ』のエミール・ヤニングスとウェルネル・クラウスに感心(「藝談」)

1923(大正12)年        38
 1月、「アヱ゛・マリア」を『中央公論』に、戯曲「白狐の湯」を『新潮』に発表。同月から翌年12月にかけて「神と人との間」(小田原事件に取材したもの)を『婦人公論』に連載、また1日から4月29日まで「肉塊」を『東京朝日新聞』に、5月1日まで『大阪朝日新聞』に連載。千葉亀雄「劇作家としての谷崎潤一郎」『演芸画報
 同月、国民文藝会より劇団功労者として、中村吉右衛門花柳章太郎とともに表彰された。この時使いとして来たのが久米と中戸川か。
   2日、今東光、谷崎宅に泊まる(川端康成の日記)。
   4日、聘珍楼へアイリッシュを招く。           
 同月、『婦人公論』の原稿を書くためフジヤ・ホテルに滞在中、猿之助夫婦、八百蔵、団子らと落ち合い、自動車で長尾峠へ行った際地震に逢う。
 同月、里見紝、家族連れで横浜に行き、谷崎を訪ねて聘珍楼で夕食、大船で箱根に行く谷崎と別れる(「遠方から見た谷崎君」)
   30日、新聞に「谷崎潤一郎氏近く洋行」の記事が出る。
 2月、感想「生きて居る人間にはあるが(文藝作品に現はれた私の最も好きな女性)」を『女性改造』に掲載、戯曲集『愛なき人々』を改造社から刊行。
   1日、鮎子出演「舌切雀」、ヘンリー小谷監督で浅草大東京で封切。
   5日、『読売新聞』に小山内「戯曲家としての谷崎潤一郎君が歩いて来た途」。
 この頃、アイリッシュ帰国、千代とせい子、横浜埠頭へ見送りに行く。
 同月、「愛すればこそ」京都市公会堂東館で上演。
 3月、談話「『愛すればこそ』の上演」を『新演藝』に掲載、中篇小説叢書12『アヱ゛・マリア』を新潮社から刊行。「愛なき人々」、市川左団次一座により本郷座で上演。『文藝春秋』に片岡良一(27)「潤一郎氏の戯曲」。
   1日から、小山内薫「息子」が、菊五郎松助らで帝国劇場で上演される。
 三、四月頃のある晩、当時「われわれの倶楽部」の観があった尾上町の「アカシヤ」へ行くと、女将のお千代から、小野哲郎が、今年八月一杯に、横浜が全滅するような地震があると言っていたと聞く。
 谷崎のサロンには時彦、吐夢、竹村信雄、井上金太郎らが集まる。チャップリンの『巴里の女性』(1923)が絶賛される(終平)。
 4月26日と5月12日の間にサクラ花壇に投宿。「家族を連れて、両親の骨を納めがてら高野山から吉野、京都に遊ぶ」とはこの時の記憶違いか(千葉)
 5月、「白狐の湯」、帝国劇場で初演。近藤経一演出、森律子、沢村宗之助。結婚前に始めて上京した森田松子(21)がこの舞台を観ている。
 6月、川口松太郎(25)、喜多村禄郎、花柳章太郎と谷崎を訪ね、その生き方に感銘を受ける(川口「初対面」)。喜多村一座の「本牧夜話」稽古中、見ていた谷崎が、役づくりの参考に横浜へ行こうと、花柳、瀬戸英一、演出助手の川口松太郎、藤村秀夫、石川新水、松本要次郎を誘ってチャブ屋で酒を飲みダンスをし、先に帰る(大笹『花顔の人」) 7月、『潤一郎戯曲全集』を金星堂から刊行。
   4日、有島武郎、波多野秋子の心中死体、軽井沢で発見される。
 「本牧夜話」、喜多村禄郎一派の新劇として浅草公園劇場で上演、演出久保田万太郎。 土屋計左右、三井銀行上海支店長。
 同月、千代、鮎子、せい子を伴い前橋市萩原朔太郎の家族とともに榛名山に遊び、伊香保千明旅館に滞在した。朔太郎の妹二人。
   18日、精二長男英男誕生。
 この夏、せい子、芥川に頼まれて小穴隆一の絵「扇を持つ女」のモデルになる。鎌倉の平野屋に小待園という旅館から通ったという。(柏木)
 8月、「名妓の持つ眼(波多野秋子印象)」を『婦人公論』に掲載。
   2日より箱根の小湧谷ホテルに千代、鮎子と滞在。ここで鉱物学者の和田維四郎(1920年没)の一家と知り合う。
  新創刊の『女性改造』に原稿を頼むべく、改造社の濱本浩(34)ホテルへ来訪、初対面。
   22日、芥川、せい子、小穴、海水浴。
   27日、家族を連れて横浜に帰る。
   28日、聘珍楼で支那料理を食す。
   29日、改造社へ「愛すればこそ」の印税を取りに行き、新橋駅で降りると、佐藤に会ってしまう。帰宅後、訪ねてきた梶原覚蔵と千代とで、横浜の天ぷら屋へ行く。
   30日、夕刻、千代と高砂町の玉屋で夕飯を済ませ、横浜駅から小田原行きの汽車に乗る。
   31日夜、小湧谷ホテルに飽きたので、試験的に蘆の湖畔の箱根ホテルへ泊まる。
 9月1日、やはり帰ろうと思い、午前11時半のバスに乗って小湧谷へ戻る途中、関東大地震に遭う。バスはしばらく安全なところまで走って止まり、降りて小湧谷へ帰ろうとするが道が破壊されているので間道をつたって戻る。午後三時頃から、小田原の大火が見える。その日は野宿。この間、横浜の家屋は焼失。
   4日、午前十時半、横浜の同じ町内に住むミス・マールマンと小湧谷を出て箱根を越え、三島から沼津へ出て、汽車に乗る。
   5日、朝大阪着。芦屋にいた旧友の伊藤甲子之助を頼る。『大阪朝日新聞』に「手記」を掲載。この時点で家族の安否不明。神戸港で船に乗ろうとするが中々伝手がなく二三日うろうろする。この時、大阪朝日の内海から岡成志(36くらい?)を紹介される。   9日、神戸から上海丸で横浜に帰る。船長は東光の父、今武平。
   10日、横浜上陸、本郷西片町の今東光宅に避難していた家族に会う。
   11日、東京府下杉並村の平次郎家へ行き、終平とも再会。以後、荻窪の親戚、大森の知人宅などを泊まり歩く。
 改造社京都支局再開のため濱本、京都の鹿ケ谷へ移る。
   20日、品川から上海丸で家族を連れて神戸へ行く。この船に小山内と岡田八千代の兄妹も同乗。
   27日、京都市上京区等持院中町十七番地、山本作次郎借家に落ちつく。牧野省三(46)が保証人。ここに左団次夫婦が浅利鶴雄とともに訪れた(「旧友左団次を悼む」)。 10月、精二、専任講師となる。
   1日付け活版印刷で、震災後の挨拶の葉書を出す。千代の母は前橋へ帰った、とある。(永見)
   2日、数日前芦屋を訪れた際不在で会えなかった濱本浩宛書簡、家探しを頼み、原稿を『女性改造』に回す話。その後自ら訪れる。
   7日、再び濱本宛書簡、三条の家を見てみたが住む気にならない旨。
 「神と人との間」は休載、連載中断。
 11月、左京区東山三条下ル西の要法寺塔頭に転居。
 この頃、中学三年二学期の終平(16)、肺尖カタルに罹り、転地のため潤一郎に引き取られる。せい子は俳優・前田則隆と東京で同棲し始めたが、前田に金がなく、谷崎が援助する。
   13日、夜行列車でやってきた中戸川が『随筆』の仕事で来訪。
  随筆「港の人々」を『女性』に、「横浜のおもひで」を『婦人公論』11・12合併号に掲載、のち合わせて「港の人々」と題する。『女性』編集長は直木三十五
 同月、根津清太郎と森田松子結婚。北野恒富が振袖を描く。美術評論家だった清太郎と松子の父、恒富の計らいによるもので、清太郎と大和屋の藝妓梅弥との関係も恒富が仲介して清算。松子は恒富に画を学んでいたという。
 同月、精二、短編集『線路の上』を毎日新聞社出版部から刊行。
 12月、佐藤は新宮へ帰る。
   19日、六甲ホテルにあり。芥川京都へ来訪するが留守(芥川年譜)
   20−23日頃、戯曲「無明と愛染」第一幕を『改造』一月号に発表。
  兵庫県六甲苦楽園万象館に転居。
   25日、秦豊吉(32)、結婚のためドイツから一時帰国で神戸港へ到着、そのまま谷崎を訪ねるか。
 この年、伊勢、男児を産む。その後、道子だけ連れて精二のところへ逃げてくる。精二が中西と相談、いったんは返すが三日ほどで戻ってくる。男児も連れてくるつもりだったが、中西が追いかけてきて男児は奪われる(精二「従妹」)。