創作「これはフィクションです」(2)

 泉が予備校生から大学生になるころは、吾妻ひでおがブームになったり、大久保康雄訳のナボコフ『ロリータ』が新潮文庫に入ったり、『ミンキーモモ』や『コロコロポロン』がアニメになったりして、ちょっとしたロリコン・ブームだった。それが数年後に、宮崎勤の事件が起きて、特に少女に悪いことをしたわけではない単なる趣味のロリコンまでが白い目で見られるようになった、というのが一般的な世相史の見方である。
 だが、現実はそれほど苛酷ではなく、その後も少女ヌード写真集は刊行され続けたし、むしろそれらが違法とされた今世紀に入ってからのほうが、事態は苛酷になっていった。「ロリコン」という語には、まだかわいげがあったが、それが「ペドフィリア」とか「ペド」とか言われると、もうそれは紛れもなく犯罪者扱いであり、フランスでは故人となったマルグリット・デュラスが、『愛人』という、かつて日本でもベストセラーになり映画化もされた私小説で、少女性愛を肯定したというので非難されたり、日本では邦訳のないマツネフという作家が、少女愛趣味で知られていたが、その慰みものにされたという女の著作によって攻撃され、キャンセルされたりし始めた。
  そういえば、白土三平の『サスケ』には、サスケをはじめとする少年少女が全裸になるシーンがあったが、あれなんかはどうなるんだろう、と泉は考えて、書庫を探してみたが、『サスケ』は見つからず、面倒になって寝てしまった。
 ところが最近、妙なことが起きた。LGBTと言われるが、それの後ろにくっつけて、LGBTQ+という、言い方をする人々が現れて、その「Q」はクイアだとかクエスチョンだとか、あるいは「+」にはペドフィリアも入っていて、これも性的少数者だから差別するなと言う人々が出て来たのである。一般的には、ペドフィリアというのは、十三歳未満の少女・幼女に性欲を覚える男だということになっているが、泉自身は、五、六歳の幼女に欲情するのと、十二、三歳の、小学校から中学校へかけての時期の少女に何かそういうものを感じるのは、区別すべきではないかと感じている。ナボコフの『ロリータ』が日本で翻訳が出た時、作家の小島信夫が、「人間の女が一番美しいのは十三歳の時だということは誰でも知っている」という驚くべき宣伝文を書いたのだが、泉は最近、それもあながち間違ってはいないかもしれない、と思い始めている。実際、街角でそれくらいの少女の、はっとするほどの美貌なのに遭遇することがあって、こういう美しさは大人の女の美しさとは違った独特なものだと思うからだ。
 しかしむろん泉は、そういう少女を性的に何とかしたいと思うわけではない。ただ見て、はあ、と思ったりするだけだ。そしてさっきの、ペドフィリアを差別するなと言っている人たちは、そう感じているだけの男をペドフィリア、実際に少女や幼女に手を出してしまう変質者をチャイルド・マレスターと呼んで区別している。
 ここで泉が、十二歳くらいの美少女と出会うといった展開にすると、小説らしくなるのだが、それはいかにもウソくさいし、「これはフィクションです」と言って通せるようなものではない。
 泉は、このところ、次第にフィクションが苦手になってきている。四十代のころから、本当の話のほうが面白い、という感覚があり、それは要するに少年が喜ぶ波乱万丈の作り話に<飽きてきた>という要素が大きいのだが、フィクション小説を読んでいて、
 (作り話だな)
 と思うと、太宰治の言う「トカトントン」みたいなものが聞こえてきて、つまらなくなってしまうのである。
 その一方、ごくたまに、これは実に面白いフィクションだった、と思える小説も、ないことはない。さらに、ドラマや映画などは、この二十年ほどでだいぶレベルが上がって、フィクションでも面白くなってきていたりする。だが小説に関しては、フィクションが苦手だという意識は強まる一方なのである。もっとも世間には、事実を巧みに変形したフィクションもあり、それだと、その事実の部分が面白い。たとえばさっきの「誰のものでもないチェレ」にしても、おばさんがチェレを虐待したり、老人を毒殺したりするのを、おばさんの家族が知らんぷりをしていたりするのはおかしいのである。そういうおかしさを、見て見ぬふりをするのも、広い意味での才能かもしれない、と思ったりした。
 ところで、唐突だが泉も時どきオナニーをする。妻が留守だからするのではなくて、妻とセックスをしていても、男はそのかたわら、オナニーもする、ということは、女は知らないのか、あるいは世間には、妻としている間はオナニーはしない、という男もいるのかもしれない。森鴎外の『雁』には、ヒロインのお玉が朝起きて布団の中でオナニーをするシーンがあるが、一九一一年に発表されてから、一九九六年に榊敦子(現在トロント大学教授)が『行為としての小説』(新曜社)で指摘するまで、八十五年の間、誰も気づかなかったらしい。
 一ノ瀬太郎の『文久三年のブリュメール十八日』には、朝目ざめた主人公が、オナニーをしようかと考えて、やめにするというシーンがある。一ノ瀬は性的なことがらをわざと不快な風に描く作風でも知られており、電車内での痴漢や、妹の陰毛の写真を懐に忍ばせている主人公、両性具有の人物と性交する男などを描いているから、オナニーなどはあまりに日常茶飯的に過ぎたと言えるかもしれない。(もちろん「一ノ瀬太郎」というのは、この小説のための仮名なので、適宜「大江健三郎」に置き換えてもらって構わない)。
 泉がオナニーを覚えたのは、のぼり棒でのそれを最初とすれば小学校五年くらい、はっきりと布団の中でペニスをこすりつけたりすることを言うなら六年生の冬あたりで、まあだいたい十二歳とすれば、四十八年間のオナニー歴を誇るわけである。それが「誇る」に足るものかどうかはむろん疑問符がつく。
 泉のオナニー生活の黄金時代は二十代の前半で、むろん泉は童貞だった。自室にテレビとビデオデッキを設置して、深夜過ぎにレンタルビデオ店へ行き、ためつすがめつして二本のアダルトビデオを選び、タバコを喫いながらいそいそと帰宅すると、三時間ほどかけてじっくりオナニーに耽るのである。それだけの体力と精力が有り余っていたということである。
 それから以後は、オナニーに用いる時間はだんだん減っていく。三十代のころは、せいぜい三十分くらいになっていたか。その当時は、もうレンタルビデオではなく、セルビデオをあれこれ買ってくるようになっていたが、中には買って失敗した、というようなものも結構あった。
 四十代は、ちょうど最初の<妻>と別れたあとで、「婚活」のつもりで始めたことが、結局は複数の女性とセックスするというような生活になっていて、それで刺激されたのだろう、性的な刊行物をやたら購入したり、ひどく女の顔に美を感じるようになり、駅に置いてあるチラシの類まで、美人目当てにとってきてスクラップしておいたりした。刊行物というのは、写真週刊誌が展開してエロ雑誌になったものをコンビニで買ってきたり、アダルトビデオのDVDをアマゾンで買ったりするのはもとより、冨士出版というところから出ている大型で箱入りの、熟女ヌード写真集というのを、あれで四、五冊くらい通販で買ったり、SMもののエロ本を買ってきたり、さらにそこから関心のない部分を破き取ってしまい、残りをスクラップブックに保存しておくとか、あとから考えると気持ち悪いことをいろいろしていたが、あれはいわゆる「四十八歳の抵抗」的なものだったのかもしれない。
 こういう、性的に悪趣味なものを、泉は「ヘドニスティック」だと心の中で思っていたが、ヘドニスティックは「快楽主義的」だから、ちょっと違うだろう。しかし、そういうものを表現する言葉が、何か欲しかったのである。
  その当時は、吉原のソープランドのウェブサイトをブックマークに入れていて、好きなソープ嬢の写真を印刷したりしていた。その当時は、多分昔よりずっとソープ嬢というのは美人になっていて、カネさえ出せばこの女とセックスできるんだ、と思うと気持ちが爆上がりするのであった。といってもソープ嬢の写真は、目隠しがしてあったりするし、ソレイユという店以外は修正をかけてあるという話だった。しまいには、泉のお気に入りだったAV女優がソープ嬢になり、週に一回くらい挨拶の動画を、手で顔を隠しながら上げるのを楽しみに観ていたりした。よっぽど、何とか妻に隠れて、七万から八万くらいする高級店ではあるが、「買春」に行こうかと考えたりしたが、実行しないうちに、その娘は退店していなくなってしまった。
 AV女優でも、お気に入りができると、その女優のものばかり買うようになった。宇美野ひかりが一番好きで、あとは大石美咲、大越はるか、御剣メイ、川上ゆう西野翔、×さやか、マイナーなところでは小倉さとみ、鈴木真央といったあたりだが、宇美野、大越、御剣は主演なら必ず買う感じ、川上や西野はあまりに多いからものによる、大石の場合、幾人もの男優の精液を漏斗を使って流し込むのを本人が嫌がっているというのがあって、ぞうっとして捨ててしまった。若いころはけっこうレイプものとかも楽しんで観ていたのが、年をとってくると、当人が嫌がっているAVは、たとえ演技でも受けつけなくなってきたし、そのころAVの裏面などが報道されて、女優がいかにも嫌そうな顔つきをしているのは半分くらい強制だと分かり、それではいけなくなった。大越はるかは美人ではないのだが、体がよくて、しかし雰囲気が明るくて良かった。泉には、暗い雰囲気でセックスをするAVは概して受け付けなかった。×さやかはロリ系美少女として人気があったが、泉はある場面を見て、知的障碍者ではないか、と思ってから、虚心に楽しめなくなった。
 四十五歳で今の妻と結婚してからは、だんだん、そういうものからは遠ざかった。五十歳を過ぎてからは、アダルトビデオのDVDを買い漁るようなこともなくなっていき、お気に入りのDVDを繰り返し観る(ないし、使う)ようになった。オナニーに用いる時間は、どんどん短くなっていき、若いころなぜ三時間もオナニーに掛けられたのか、不思議に思うくらいで、むしろ、早く日常の時間に戻りたいと思うようにさえなった。
 さて、泉は若いころ、演劇を観に行くのが趣味だった。趣味というより、演劇評論家になりたいとすら思っていた。映画も観たが、演劇のほうが好きだった。だが、演劇評論家になるような人というのは、年間三百本くらいの演劇を観に行くらしい。泉には、そんな経済力も体力もなかった。それに、十年ほどして気づいたが、演劇評論をやる人は、そのためにそれで手一杯になってしまって、演劇以外の仕事ー小説とか、評論とかーができなくなるらしいと気づき、演劇評論は諦めた。それでも好きで月に一度くらいは行っていたが、四十代になるころから、飽きてきた。泉は歌舞伎が好きでそれが中心、それに小劇場とかいろいろなものが混ざっていたが、どちらに対してもあまり熱を持てなくなってきた。歌舞伎は、明らかに飽きていたし、それ以外の演劇は、時代として、八〇年代のような輝きは失っていた。
 そこへ、コロナがやってきて、泉は、ほとんど歌舞伎を含む演劇へ行かなくなっていた。だが、それがやや収まって、国立劇場が一時休館して新築されるという、お別れ公演で、「妹背山婦女庭訓」を二か月かけてやった。泉はこの歌舞伎がわりあい好きである。数年前に、大島真寿美という作家がこれを書いた近松半二を主人公にした小説を書いて直木賞をとったが、これも読んでいる。前半の、「日本版ロミオとジュリエット」と言われる部分は、さほど興味はない。後半の、お三輪という女が、求女と名のっている美青年を橘姫と取り合って、オダマキを片手に追っていって、官女たちになぶられ、金輪五郎に殺されるという、あそこが好きなのである。大島真寿美も、お三輪を中心として描いている。
 そこで、国立劇場のチケットをとって出かけたのだが、これがえらいことになった。泉の最寄りの鉄道の駅は平田山なのだが、そこはちょっと遠い。家からちょっと歩くと、「すぎ丸」という、中央線と井の頭線をつなぐ南北路線バスの停留所があるから、そこからバスに乗り、丸ノ内線南阿佐ヶ谷から地下鉄に入ることにした。だが、国立劇場の最寄り駅は、半蔵門線永田町駅だ。地下鉄路線図を見ると、丸ノ内線赤坂見附永田町駅は、つながっていることになっている。東京周辺に住んでいる人なら、この、二つの駅が「近いからつながっている」という表記がいかに恐ろしく、実際には一駅分くらい歩かされることをご存じだろう。
 実際、赤坂見附で降りて、地上へ出た時は、このまま東京の真ん中で遭難するのではないかと思った。国立劇場がある永田町のほうへ歩いて行くと、歩道橋があって、それを上り、さらに行くと長いゆるやかな上り坂がずっと続いていた。
 タバコのニコチンには、筋肉を増強する働きがあるらしく、タバコをやめてから泉は脚が弱くなったー年のせいと、不断使っていないせいかもしれないが、以前大阪で、ちょっとした山の上にある図書館へ行った時、道に迷って、遭難しそうになったのは、三十代の時である。ちなみにその山の上には、大阪教育大学附属小学校という、宅間という男による児童殺傷事件があった学校がある。それは九〇年代の、まだインターネットが普及していない当時だから、図書館に泉が探している本があるかどうかは、行ってみなければ分からなかったのである。
 国立劇場へ行ったのは六年ぶりで、六年前は妻と一緒に、半蔵門の駅から行ったが、永田町方面から行くと、裏手の、国立演芸場の入口脇を通っていく。以前はここは地下へいったん降りて少し地下道を歩き、階段を上るようになっていたのが、様子が違っていて、急に上りの階段になっていた。
 疲れ果てて、ようやく三階の一番後ろの席にたどり着いて、時計を見ると、もう二十五分も開始時刻を過ぎていた。泉は閉所恐怖症だから端の席をとったが、二つ向こうに七十過ぎくらいのおじいさんがいて、盛んに「音羽屋!」とか「播磨屋!」とか「待ってました!」とか声を掛けている。泉も昔からかけ声はするほうだが、かけ声をする人をこんな近くで見るのは珍しい。あまり最近は歌舞伎へ来ていないし、コロナの当時はかけ声が禁じられていたから久しぶりだが、泉は筋書きを買わずに上がってしまったので、今舞台にいるのが誰か、すぐには分からない。ちょうど求女を橘姫とお三輪が争っているところで、お三輪は印象的な緑の服、これは尾上菊之助である。橘姫は中村米吉で、泉は米吉を、かわいいと思っている。以前、「風の谷のナウシカ」を菊之助が歌舞伎にしたのを昼と夜と観に行ったが、そのあと一部だけ上演した時、ナウシカを演じたのが米吉で、これは行かなかったのだがブロマイドだけ取り寄せた。女方になった米吉は、泉が若いころ好きだった女性に似ていて、その女性にはずいぶん迷惑をかけたものだが、それで好きなのである。
 一度目の休憩は長かったが、それで人心地ついた泉は、次の幕からは軽く声をかけ始めた。歌舞伎のかけ声は、老巧な人だと、枯れたような声で「なりこまやッ」と早口に言ったり「…わやあ」と下からせり上げるように叫ぶ。二つ向こうにいる人は、それほど技巧派ではなく、全力で短く叫んでいる。泉はわりあいのんびりと「なりこまや!」「おとわや!」とやっている。上方ではかけ声はもっとのんびりしていると言われるので、少し上方風かもしれない。タイミングはちょっと難しいが、ほかの人のにかぶせてやればまあ問題はない。出とひっこみでかけるのが無難で、昔はよくそれをやったが、その日はそれはやめにして、つけ打ちの二つ目か、決まったところを適度に狙った。
 ちょっとおかしいのは、三十代、四十代のころは、自分のような若造が声をかけたりしていいんだろうか、とびくびくしながら、汗をかいて声をかけていたが、今では六十になっていて、まあこんな高齢化社会ではひよっ子なのかもしれないが、別にもうどうでもよくなっているのが、我ながらおかしい。妻が一緒に来て声をかけるのを聞いてもいるが、泉のかけ声に「手練れ」感はないそうである。なに、なくたっていいさ、としかもう思わない。
 この芝居は、歌舞伎(元は浄瑠璃)では、一番古い時代を扱ったものだろう。何しろ悪役が蘇我入鹿で、それを倒すのが藤原鎌足と藤原淡海(不比等)で、時代考証はいい加減な上、娘は明らかに江戸時代の和服を着て出てくる珍妙な劇である。田舎娘のお三輪が、実は藤原淡海である求女に恋をして、襟に糸を縫い付け、緒環を持ってあとを追っていくが途中で絲が切れて、御殿へたどり着く。求女を探していると六人の官女に見つけられ、これこれをすれば婿どの(求女)に会わせてやると言われて色々変なしぐさをさせられ、最後はなぶられて、怒り心頭に発して御殿へ上がっていくと、漁師鱶七、実は金輪五郎という善玉方の武士が、入鹿を倒すためにはお三輪のような「凝着(ぎちゃく)の相(そう)」の女の生き血を何とかいう笛に振りかけるといいというので、お三輪を切り殺してしまう。このお三輪の哀れさがいいのだが、それがなんでいいのか。
 お三輪は、『不如帰』のような、肺結核で死ぬヒロインでもないし、相愛の男と引き裂かれて死ぬ女でもない、だが死ぬ間際のセリフを聞くと、求女とは単なる片思いではなく、セックスをしていたらしいことが分かる。つまり「捨てられた」わけで、捨てられて、相手とは実は身分違いといった特殊な哀れさがある。もっとも、男女立場が逆だったら、「ストーカー」と言われてしまうだろう。そこだ。
 しかし、お三輪をいいと思う観客の中には、ある嗜虐的な気分もあるんじゃないか、と泉は思っている。馬鹿め、という気分だ。不断は、簡単な詐欺に引っかかった人のニュースを見て、
 (馬鹿め)
 と思っても、それは言えない。家庭内で言っている人はいるだろう。お三輪は、そういう気持ちを解放させるところがある。高い身分の男とセックスしたので激しく恋慕し、その結果、なぶり者になって殺されてしまう、そういう女を
 (身の程知らずなんだよ)
 と言ってやりたい気持ちが、観客の中にあるんではないか。
 ところで泉が「はりまや」などと気の抜けたかけ声をかけていたら、脇にいたかけ声おじさん(「大向こう」などと言う)は、そばにいるのが嫌になったのか、どこかへ行ってしまった。しかしかけ声が聞こえていたから、同じ三階席の、すいていたから別の席へ移ったのだろう。
 客席を見渡すと、泉より若い人ももちろんいたが、全体として高齢化していて、平均年齢は泉より上のような気がして、これは歌舞伎を観に来るといつも感じる。だから「ナウシカ」とか「ワンピース」とかを歌舞伎にせざるを得なくなる。
 芝居が終わったのは四時ころで(ここは「通」としては「はねた」と言うところである)、帰りは素直に半蔵門駅まで歩き、半蔵門線を銀座線に乗り換え、渋谷へ出て井の頭線に乗ったが、渋谷駅が改築中で、銀座線から井の頭線までがやたら遠くなっていた。
 ようやっと、最寄りの平田山駅へ着いて、地下の改札をスイカで抜けて、奥にあるエレベーターで地上へ上がろうとした時、老人らしい人に何か言われた気がした。一緒にエレベーターへ乗ったが、何も言われない。泉は、マスクをしていたし、髪の毛が年齢にしては黒いから、もしかしたら、若い人がエレベーターに乗ろうとしていると思われたのかもしれないと思った。
 自宅へたどり着いたが、疲れていて、すぐ寝てしまった。起きたのは七時前で、夕飯の支度(といっても弁当を買ってくるとかレトルトものを準備するかだが)が面倒なのと、数日前に郵便受けに入っていた「どんまつ」という丼ものの店に電話して、かつ丼を一丁出前してもらって食べた。

(つづく)

創作「これはフィクションです」(1)

これはフィクションです
                              小谷野敦

 朝、目を覚ますと、今日はどういう楽しいことがあるかを考えないと、起き上がれない。たとえばその日は、昼には天ぷらそばを食べよう、と思って起き上がった。
 十五年前にタバコをやめてから、こうなった。それまでは、朝起きるとまずタバコを喫ったから、それが楽しみだったわけだが、それがなくなったのでそんな儀式が必要になった。朝食にフルグラを食べるとか、だいたい食べものに関するちょっとした楽しみである。
 起きた泉浩太(これが主人公の名である)は、自室へ行って着かえ、パソコンの前に座ってメールをチェックする。すると、フランスへ留学している妻からのメールが来ている。現在では、これも泉にとって楽しみの一つになっている。もっとも中身は、「今日も図書館で調べものです」といったそっけないものだが、それでも、いい。妻はニ十歳年下で、四十歳になってやっと留学の機会を得た。泉は六十歳になり、一人にしておくのは不安だから、留学も一年間だけだったが、それにしても自炊のできない泉は、以前一人暮らしだった時のように、レトルトご飯や缶詰、買ってきた弁当に外食といったもので充当されることになった。
 泉は、文学の学者だが、教授ではない。今日まで非常勤講師で、こういうのを「専任非常勤」という。そして今は泉は「論文」は書かなくなっている。学術論文というのは、基本的に原稿料が出ない。人々が論文を書くのは、これから専任になるため、出世のためか、教授になった者が、教員としての実働時間からすると多い給料分を働いているお礼奉公か、岩波書店の『文学』などの原稿料の出る雑誌に書くものだが、今では『文学』など、文学系の雑誌は軒並み休刊になってしまった。文藝雑誌に「評論」は載るが、あれは何かの加減で「文藝評論家」と認知された人が書いているので、泉のような「ただの学者」には声がかからないから、書くことはできない。学術書というのが出版社から出ているのは、専任になった人が、科研費というのをとって、それを出版社に渡して出してもらっているのだ。もちろん印税は出ない。泉が出した本は、出版者の社長の趣味で出たようなもので、それでも印税は出なかった。出版というのは、山を三つくらい持っていないとやっていけないと言われている。
 泉はこれまで、日本人で二人目のノーベル文学賞受賞者である一ノ瀬太郎について、著書を二冊出している。一ノ瀬は八十八歳の長寿を保って近ごろ死去したが、そのお別れの会が帝国ホテルで開かれた、というニュースが流れた。作家や文藝評論家、元東大総長や元読売新聞記者の早大教授などが招待されていて、華やかな様子がX(旧ツイッター)で流れたが、泉は何しろニュースが流れるまでその日それがあることすら知らなかった。自分が呼ばれなかったので文句を言っているような人もいたが、泉は、指をくわえて見ていた。もともと、天皇制を否定する一ノ瀬は、ノーベル賞を受賞して文化勲章を打診されても断ったし、藝術院会員にもならなかった。そのお別れの会を、藝術院会員や、紫綬褒章を受章した作家が仕切っているのは不思議な光景で、ああ没後こうして微温的な作家に再形成されていくんだな、と泉は思い、「一ノ瀬太郎の再形成」という本の題名を思いついたが、別に書く気はなかった。
 泉は、週に二回、非常勤講師として二つの私立大学へ行って二コマと三コマずつ教えてくる。別に自分で選んで教授でないわけではなく、なれなかったのである。はばかりながら、泉は東大の出身で、博士号までとっているから、人に言うと、それで専任になれなかったのかと驚かれるが、あれは若いころ、非常勤先でセクハラ事件があって、その加害者を非難したりしたのが影響しているらしい。もっとも、九州とか台湾の大学で専任になる話はあったのだが、遠いから断っていたら、こんなことになった。
 しかしまあ、それだけでもなさそうで、ポストモダンとかテクスト論とか精神分析とか、近ごろのはやりをバカにしていたのがいけなかったのかもしれないし、博士号のない教授は大学を去れ、とか言っていたのがいけなかったのかもしれない。いわゆる舌禍というやつである。
 泉が教えている大西文学大学や三ツ渕学園大学は、全体のレベルは高くはないが、文学に関しては質のいい学生が集まるところで、それなりにやりやすかった。若いころ泉はもっと有名な大学で非常勤をしていて、学生の無知なのに怒って声を荒らげたりしていたため、学生から大学に苦情が行って注意を受けたこともあったが、今では泉も、学生が二葉亭四迷を知らないことくらいで怒ったりはしなくなった。
 文学部の文学科だからといって、文学好きな学生が集まるわけではない。たいていは、その大学ならどこでもいいという学生の吹き溜まりである。その点、泉が教えている大学はましである。高校の国語で文学を教えるかどうか、などということが問題になったりしたが、泉の見るところ、教えたってそれで生徒が文学に関心を持つわけのものではないし、教えなくたって持つ者は持つ。
 しかし三十年も教えてくると、「幻想」もなくなるから、だいたい学生の基礎知識はこれくらい、一学期に読めるのはこれくらい、一週間にできるのはこれくらい、ということが分かるし、それでシラバスを作れば、特に問題はない。
 ところで数年前、さる有名私大の教授で、文藝評論家としても知られる人が、女子院生に「愛人にしてやる」と言ったとかいうのがすっぱ抜かれて大騒ぎになり辞職するという事件があり、今でも騒いでいるが、多分騒いでいるのはあまり大学内部の実態を知らない人で、あの程度のことでは普通は停職三か月程度なのに、マスコミが騒いだから退職しただけ(解雇ではない)ので、実際にはもっとひどい、エグいことをしている大学教授がわんさといるのである。それにしても、泉はあの人が有名大学の教授になる前にちょっと会ったことがあるが、あれは有名大学の教授になってかなり傲慢になったんだろうなあ、という気はしている。だいたい、非常勤である泉には、女子学生を一人だけ誘ってどこかへ食事に行くなどということは不可能である。非常勤には当然ながら研究室がない。場合によっては専任でも自分一人の研究室がないということがあるが、研究室を持っていると人間はやっぱり自分をいっぱしの者だと思うものらしい。
 時々、川端康成を教えていると、「先生、藝者を買ったことありますか?」と訊いてくる学生がいる。こういう学生は極めて貴重だ。もちろん、ないのだが、藝者を買った(上げた)こともないのに『雪国』を教えるのはおかしくないか、と泉は思う。
 泉は、ソープランドも行ったことがない。今の妻と結婚する前に、一度行ってみようかな、と思っていたら結婚して、行く機会を失った。だが、今妻は不在なので、そのスキに行こうかと考えている。
 言っておくが、これはフィクションである。妻が留学しているというのもフィクションである。しかし一般に、「この作品はフィクションです」と言うことはあっても、この部分がフィクションである、と言うのは、普通はしないことであるらしい。
 世の中には私小説というものがあり、それは日本だけではなく外国にもあるということが、アニー・エルノーノーベル賞をとったことで少しは広まったかもしれないが、世間ではこれを「オートフィクション」などと呼んで、事実であることを隠蔽しようとしている。明らかに私的体験をもとにした小説を論じていても、作者と主人公を混同してはいけない、と目を血走らせているような人もいる。
 まあ、それはいい。しかし泉も年が年だから、ソープランドで興奮して脳溢血とか脳梗塞とかになるかもしれず、それを妻に知られたら困る。だが今は妻はフランスなので、恐らく連絡は仙台にいる妹に行くことになるだろう(ここもフィクションである)。
 妻が家にいた時は、出先で倒れたりした時のために、財布に、妻の名前と携帯番号を書いたメモを入れておいた。だがそれはもちろん基本的に東京にいるわけだが、仙台の妹となると、すぐに駆け付けることはできないから、どこかの病院へ運び込まれるのであろう。
 ソープランドというのは、高額である。安いものなら三万円くらいだが、高いところだと八万円くらいかかる。それにやはり<入れる>のであるから、敷居が高い。そこで、妻の留守中に、大久保にある「学び舎」という「熟女ヘルス」へ行こうか、ということも考えた。これは独身だったころに何度か行っているから敷居が低い。もっともこれも、興奮して脳梗塞とかになる可能性はある。
 昼食はたいてい外食で済ますが、泉はラーメンが好きであった。あった、と過去形なのは、今ではあまり食べないからである。ラーメンはかなり体に悪く、週に二食くらい食べていたら五十前に死ぬだろうと思っている。
 両親はすでに死んでいる。母などは六十代で死んでしまったが、生きていたら八十四歳になるから、まあ普通に生きていてもおかしくはないが、泉が還暦になっても非常勤だと知ったらさぞ嘆くだろうから、知らないまま死んでいったのは良かったかもしれない。
 時どき学生に、暇な時は何をしているか、と訊くことがある。これはいくぶん、勉強不足を非難する気味もあるが、今の若い人はどうやって余暇を過ごしているのかという関心もある。本を読んでいる、というような学生はあまりいない。アルバイトをしている、というのが多い。意外にないのが、テレビを観ているという答えだが、今の学生はテレビよりスマホで友達とやりとりする方が主なのかもしれない。中には、夕飯を食べたら寝てしまうといった不思議なのもいるし、ぼうっとしているという心配になるのもいる。
 泉は、今はあまりテレビを観ない。若いころは観ていたが、四十代半ばから次第に観なくなった。新聞をとるのをやめたせいもある。特に、バラエティ番組というものを観なくなった。うるさくて下品だからで、おかげでお笑い芸人というものを、落語家以外は知らないようになった。
 代わりに、ツタヤで借りて来た映画などを観る。ここ十年は、配信されるドラマなども観る。近ごろツタヤで「誰のものでもないチェレ」という一九七〇年代のハンガリー映画を借りてきて観た。自分が高校生のころ岩波ホールで上映されていたもので、観たことはなかった。一九四〇年の独裁政権時代のハンガリーの農村が舞台で、冒頭からいきなり、六歳くらいの女児が野原を全裸で牛を追っていた。チェレと呼ばれているこの女児は孤児で、何とかいう夫のいる女が助成金欲しさに孤児院からもらってきたので、少しも可愛がられていない。納屋には老人がいるが、これは元の家の持主で、女はこの老人から何らかの策略で家を取り上げたらしい。この老人だけがチェレに優しくしてくれるのだが、老人とチェレが憲兵と話しているのを見た女は、憲兵に言いつけられるのではないかと恐れ、毒入りの飲み物をチェレから老人に渡させて殺してしまう。チェレは手に焼けた炭を押し付けられるなどの虐待に遭っているが、とうとう女はチェレを殺そうとし、毒入りのミルクを与える。だがチェレはそれをそこに寝ている赤ん坊に与えようとする。それを見つけた女は、チェレを「人殺し! 毒が入っていると知ってミルクを与えたのよ!」と言って押さえつけ、夫やほかの大人が女を押さえる。女のこういう犯罪行為を、夫や周囲の者がどう思っていたのかは分からない。最後にチェレは、この女の家族がクリスマスを祝っているのに入れてもらえないまま、納屋へ行ってロウソクに火をつけて一人でクリスマスを祝うが、ロウソクの火から納屋は火事になり、恐らく焼死してしまう。
 陰惨な映画だがいかにも岩波ホールで上映しそうで、そういうのを観に行く日本人は、ハンガリーはともかく、アルメニアアルバニアの区別もつかないで、エストニアアゼルバイジャンとかそういう国は、戦争とかテロが起きた時だけ認知して、前から知っていたようなふりをするもんだよな、と思いながら泉は本を読み始めた。
 そういえば、今の、チェレを演じていた少女について、DVDについていた予告編では「7、000人から選ばれた天才少女/ジュジェ・ツィンコーツィ主演」と書いてあった。「七千人」を表記するのにわざわざ英語に合わせた三桁目のカンマを入れる理由が疑わしかったが、あの少女は成長したらさぞ美しくなるだろうという顔だちだったから、映画内の悪い女がそこまで計算して育てなかったことがややいぶかしかったのだが、この少女はこの後どうなったのだろうとウィキペディアで調べたら、やはり美人女優に成長していたが、それほど広く知られているわけでもなさそうだ。

(つづく)

フィクションの笑いと事実の笑い

 大江健三郎の『ピンチランナー調書』は、大江没後、雨後の筍のように叢生した大江論の中でも、あまり言及されることはない。この長編が新潮社から刊行されたのは一九七六年で、「哄笑の文学」として大きく宣伝されていた。その時中学二年生だった私は、二年後に高校一年生になって大江の初期作品を夢中になって読んだあとで、この最新長編を読み、失望するほかなかった。それは哄笑とはほど遠かったし、かといって大江の初期作品のような輝きもなかった。その後、この作品を再評価した人は私の知る限り、ない。
 当時、大江の盟友として知られた井上ひさしが、盛んに「笑いの文学の復権」などと言っていたが、柄谷行人は、「笑いの復権などと言っている者の書いたものが面白かったためしはない」と言っており、私もそれ以後、井上の演劇や小説の、どこがそんなに笑えるのか常に疑問に思ってきた。しかしこれも、実際に笑えるかどうかは別として、憲法九条擁護の姿勢と合わせてか、井上ひさしのファンは多い。
 大江が若いころ連続インタビューをしていたその一部は『世界の若者たち』に収められているが、そこに入っていない、大江より少し年長の小林信彦へのインタビューもあった。小林もまた『日本の喜劇人』のような評論で知られる多作な作家で、時に「笑い」をもたらす作家だと言われるし、自身でもそう自負している趣きがあったが、私はそれほど読んでいないとはいえ、ダミアン・フラナガン著、小林訳と銘打って出された『ちはやふる奥の細道』などは、西洋人が日本の古典をどう誤解したか、という趣旨の、抱腹絶倒の読物として刊行された。しかし、あとになって実際に読んだ私は、少しもおかしくないことに失望させられた。
 それ以来、「抱腹絶倒」という言葉が、宣伝文句であれ書評であれ、ついている書物で、実際にそうであった書物というものを、私は知らない。
 だが、私は『江藤淳大江健三郎』(筑摩書房)を書くために大江の書いたものをほぼ全部読んだが、そのエッセイには、思わず笑ってしまうような話がいくつもあり、私はいつか「大江さんおもしろ話」として編纂したいとすら思ったほどだった。たとえば、長男の大江光がテレビで相撲中継を観ていて、「前みつを早くとりたい出羽の花」とアナウンサーが言ったので、「アナウンサーが俳句を申しました」と大江に知らせに来る。大江が、それは季語がないね、と言うと、光は「出羽の花の花はどうでしょう」と言ったとか、その類の話である。
 私たちは、日常生活の中で、抱腹絶倒し、腹が痛い、というような経験をすることがあるが、それはたいてい、本を読んだりテレビで芸人の芸を観たりして起こるよりも、日常生活の中で実際に起きたことに対して笑いが止まらなくなるものだ。(もちろん、これに異論のある人はいるだろう)
 たとえば、お笑い芸人というのがいるが、彼らはしばしば、はじめは漫才師として出発するが、そのうち次第に独立して、司会者などとして、単独で、即興で面白いことを言うようになっていく。
 先日、黒川博行吉川英治文学賞を受賞して、その記者会見で、黒川作品では漫才のような会話が出てくるが、それは黒川が大阪人だからか、というような、まとめて言えばそういう質問が出て、黒川はその時、「漫才は嫌いです」とはっきり言った。調べてみると、十年前の直木賞受賞の時も、自作の会話を漫才と結びつける質問について、不本意だと言っていた。
 私が高校二年だった一九七九年にいわゆる「マンザイ」ブームが起き、それ以来ある意味ではずっとブームは続いているが、私も漫才は嫌いである。落語は好きだが、落語というのは決して笑うために聞くものではない。くすぐりもあるから笑うことはあるが、爆笑を期待して落語を聴くということは、落語好きにおいてはあまりないだろう。古今亭志ん朝の「駒長」とか「今戸の狐」のように、珍しいが初めて聞いたら本当におかしい落語というのもあることはあるが、例外である。漫才というのは、作ったもの、つまりフィクションで、聴いていても私は面白いとは思わない。むしろ、かつて笑福亭鶴瓶上岡龍太郎が「パペポTV」でやっていたようなフリー座談のほうがよほど面白いと思う。これもまた異論のある人が大勢いるだろうが、つまり私にとっては、作った笑いより、事実が喚起する笑いのほうが面白いのである。
 藤山寛美がやっていた松竹新喜劇はどうか、というと、私が子供のころ、藤山寛美が主演する舞台を中継するテレビ番組「藤山寛美三千六百秒」というのを民放でやっていたし、テレビで寛美の出る舞台を観る機会が多かった。だが、中で最も私の印象に残っているのは、寛美の芸に、相手役の俳優が笑ってしまって(いわゆる「ゲラ」)演技が続けられなくなった時のことで、要するにフィクションよりも実際に起きたことのほうが面白かったということだ。
 私はかねて私小説擁護論者で、モデル小説や実在の人物が出てくる歴史小説が好きなので、フィクションに対してあまり好きではないという感情を持っているが、かといって面白いと思ったフィクション小説がないわけではない。だが、漫才に関しては、面白いと思ったことがない。より正確にいえば、人造的にこしらえられた話によって心の底からの笑いを誘われることは少ないということだ。
 現代においては、ツイッター(X)などで、実際にあった話が簡潔に紹介されて、笑える話として人気を得ることがあるが、私にはそういう風に不意打ちに現れるものこそが実際には心から笑えるものであって、笑わせようと思って作ったものは、笑わせる力は強くないと考えている。もちろん、「喜劇」というものがあるけれど、それは本来はハッピーエンドで終わる劇のことで、「笑劇(ファルス)」とは別のものだし、ファルスの多くは、下品なネタで笑わせようとするものだ。大江健三郎が「笑い」の文学などを書こうとするのは、師である渡辺一夫ラブレーの翻訳の影響があるわけだが、ラブレーの作品は、「ふぐり」が並ぶあたりなど、私は面白く読んだが、別に声をあげて笑うようなところはなかった気がする。
 だが、私が見落としていた大江文献で、山口昌男の『文化人類学への招待』(岩波新書)に付録として書かれた文章で、多摩市で行われた山口の五回にわたる講座を大江が聴いたあと、山口を大江家に招いて食事をしながら話していると、族長をみなで卑しめるという儀礼についての話が出て、当時小学校の卒業を迎えていた次男・桜麻と思しい子供が、それなら、僕たちも校長先生を取り囲んでインブをからかう罵言を浴びせたらどうか、と発言し、笑いを誘ったという逸話で、これもいかにも「大江さん話」らしい。
 『ピンチランナー調書』が出た時、大江に西脇順三郎から手紙が来て、これからは諧謔の時代です、と書いてあったというのだが、これはちょっと意外な感じがする。西脇といえばむしろ君主主義者のT・S・エリオットを愛好する保守的な詩人で、のちに大江がエリオットをモティーフとする『僕が本当に若かった頃』を出した時、読者からその点での批判を受けたということがあった。その一方、西脇は慶大教授として、学生だった江藤淳をものすごく嫌っていて、そのために当時江藤の宿敵となっていた大江に手紙をよこしたのかもしれないと考えられもする。

(未完)

中西進と中村光夫について

Amazonで、私の「もし『源氏物語』の時代に芥川賞直木賞があったら」に、sasabonという人が2月26日づけでレビューを書いた。「目くじらを立てるほどではないですが、過去の名作を恣意的に「芥川賞・直木賞」に選定したというお遊び」というタイトルだ。以前はAmazonレビューにはコメント欄があったのだが、なくなってしまったし、私は昨年自分のAmazonレビューを削除されてから、レビューを書くことができなくなり、今Amazonを提訴する準備をしているところだが、なのでここで答える。

 まず「恣意的」ということだが、文学であれ美術であれ音楽であれ、最終的には評価は個人の主観であって、いくら説明しても相手が納得しなければ「恣意的」ということになる。

 それから、中西進が国文学界では異端と書いたことに不満のようだが、これは私の主観ではなく、客観的事実である。時おりこれを言うと、私が中西を攻撃しているように思って怒る人がいるのだが、どうも落ち着いてもらいたい。中西はかつて日本比較文学会の会長をしていたが、これも国文学界で異端だからで、私は筑波大学で中西に教わった加藤百合・現筑波大教授に、なぜ中西が異端なのか訊いたことがある。すると「比較文学なんかやるからですよ」ということだったが、私はあまり納得しなかった。次に、東大名誉教授で学士院会員の川本晧嗣比較文学)が、なぜ中西が異端なのか、当時東大教授だった小森陽一神野志隆光に聞いてみたら、二人ともせせら笑うばかりでまともに答えなかったというところから、小森や神野志共産党系の左翼だから、保守派の中西を嫌っているだけ、つまりイデオロギー的なものではないか、と話していたのだが、私の先輩で古田島洋介明星大学教授は、漢文学の人で、小堀桂一郎の弟子筋の右翼っぽい人だが、「どうせお前らの参照している『万葉集』は講談社文庫のだろう」と思う(この場合「お前」は私ではない)とせせら笑っていたことがあるので、イデオロギー的なものですらない。

 あと中村光夫に対して私が批判的なのが気に入らないというが、中村は私小説批判派で私は擁護派だから、それは『リアリズムの擁護』(新曜社)や『私小説のすすめ』(平凡社新書)に書いてあるので、読んでもらいたい。

 以上、sasabonさんへの回答であった。

小谷野敦

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音楽には物語がある(63)「或る日突然」と「Dear My Friend」  「中央公論」3月号

 「或る日突然」は、1969年に男女2人組のトワ・エ・モワが歌ってヒットした曲で、作詞は山上路夫(作曲・村井邦彦)である。私は当時小学校一年生だったし、その時はこの歌を聴いた記憶はなく、あとでマンガの中で人物が口ずさんでいるのを見たことがあるが、ちゃんと聴いたのは大人になってからだ。

 歌詞は、二人の男女が、これまで友達でいたのに、ある日突然、お互いに恋ごころを抱きあっていることに気づくという甘いものである。男女二人で交互に歌う形式で「いつかこうなることは、私には分かっていたの」などと歌うのが、どっちの気持ちなのか分からないように作ってある。ある意味で、これとは逆の設定を歌っているのが、Every Little Thing(ヴォーカルは持田香織)の「Dear My Friend」で、こちらは仲間数人組の中のある男女が、いつしか2人で会う機会が多くなっていて、男がある日突然、告白を始めるが、女のほうにはその気がなくて、振ってしまうという割と苛酷な歌なのだが、最初さっと聴くと気づかない。しかし気づくと、歌っているのが持田香織で、私は好きなので、持田に振られているようなややマゾヒスティックな快感すら覚える曲である。     私は長いことこれらの歌を聴いてきて、後者はいかにもありそうなことだが、前者はまずないシチュエーションではないかと思うようになった。

 男女が友達関係でいて、ある日突然、双方がお互いを好きであると気づくということは、ありそうもない。むしろ、友達関係でいた間に、どちらかがもう一人に恋愛感情を抱いているが、相手にその気がなさそうなので諦めているというのが普通ではなかろうか。どうもこの歌詞は「相思相愛」の幻想にとらえられている。

 一時期「セフレ」などと言われていた男女関係も、二人がともに「体だけの関係」と割り切ってのそれではなく、片方は恋愛感情を抱いているがもう片方はそれほどでもないまま肉体関係を続けているのをいうのだろうと私は考えていたが、間違ってはいないだろう。

 今年の大河ドラマで主演している吉高由里子が主演した「婚前特急」(2011)という映画でも、はじめ吉高は複数の男と関係しているアバズレ女の設定だったが、次第に様子がおかしくなっていって、その中の一番冴えない男と結婚してしまうというエンディングだった。

 金井克子が歌ってヒットした「他人の関係」(1973、有馬三恵子作詞、川口真作曲)は、それこそ「セフレ」かと思われるような冷淡な男女のセックス関係を歌っているようで、当時金井の手のアクションが面白かったので、小学生だった私も歌詞の意味も分からずそこだけ面白がっていたが、この歌は最後まで来ると、クールだったはずの女が、もし相手の男が自分を捨てて逃げるようなら必ず引き留めて見せる、という未練たっぷりぶりを見せる展開になっている。これは山口百恵の「Playback Part2」と同じ、冷たく見えた女が最後に普通の人情を持つことを示して聴き手の保守的な感覚を安心させる技術だとも言えるが、人間はそう冷酷ではないことを作詞家が知っているとも言える。もっとも「或る日突然」のケースだと、男女の間に友情は成り立たないのか、などと言われそうだが、むしろ話は逆で、同性異性を問わず、友情というのは恋愛の要素を含んでいると考えるべきだろう。「或る日突然」の作詞家は、それを知らなかったわけではなく、ちょっと奇を衒ってヒットを狙いに行って当たっただけだろう。

ケン・フォレット「大聖堂」が日本ではイマイチなのはなぜ

 先日、アメリカの作家ケン・フォレットが12世紀英国を舞台にして書いた大長編『大聖堂』について、これははじめ新潮文庫で翻訳が出たので、新潮社の校閲の人が原作のミスを見つけたという記事を読んだ。前から『大聖堂』は気になっていて、世界で二千万部のベストセラーだと言われていて、しかし長いので手をつけられずにいたのが、それで気になって、調べたらドラマになっているので、ドラマの第一回を観たがそれほど面白くはなかった。だが原作を借りてきて全三冊の上巻を読んだら面白かったのだが、周囲の人に訊いても、誰も「読んだ」という人がいないので、Xで投票にかけてみたら、読んだという人はごく少なく、大多数は「何それ、知らない」であった。

 それでも、もちろん普通の本よりは読まれているが、「ハリー・ポッター」に比べたらさしたる成功を収めていない。

 かつて渡部昇一は、アメリカの作家ハーマン・ウォークという、『ケイン号の反乱』で知られる作家が若い女を描いた『マージョリーモーニングスター』という長編を、初めて英語で読み通した小説だと言っていて、これは50年代にアメリカでベストセラーになり、日本でも翻訳されたのだが、ちっとも売れなかったようである。

 比較文学の世界では、「翻訳研究」というのが盛んで、たとえば日本文学がどのように英訳されたか、などを調べたものがあるのだが、私のようにカナダの大学で日本文学を学んだ人間には、さほど新味はない。これに対して四方田犬彦は、キティちゃんは世界的成功を収めたが、「ちびまる子ちゃん」は西洋では受けず、むしろアジア諸国マーケティングに成功しているということを言っていて、これは実証的研究の対象になりにくいのだが、私はむしろそっちのほうに面白みを感じる。つまり『大聖堂』はなぜ日本ではイマイチなのか。それは単に12世紀イングランドについて日本人が不案内だからなのか。まあ、そうかもしれないが、日本文学が源氏物語や川端から村上春樹までどう西洋に受け入れられたかを研究するというのは、どうも愛国的すぎて好きになれないところがある。むしろどういうコンテンツがどこで受け入れられ、どこでダメだったか、のほうが私の興味に合致するのである。

小谷野敦