音楽には物語がある(48)「きのう何食べた?」の中村屋 「中央公論」12月号

 夏休み前に(といっても私は勤め人ではないから何かが休みになるわけではない)、アマゾン・プライムで、西島秀俊内野聖陽がゲイ・カップルを演じるドラマ「きのう何食べた?」(二〇一九)を観ていた。原作はよしながふみのマンガだが、こちらは読んでいない。

 このドラマの見どころは何といっても主として西島、時に内野も作る料理の美味しそうなことで、漫画ではこの美味しそうさは出ないだろうと思ったのも読まなかった理由である。小さなマンションに住んでいるようだがこぎれいに整えられた調理場で、西島や内野が、内心ナレーションでレシピを口にしながら作っていくのが、何だか自分にもできそうな気がするし、できあがりも大層うまそうなのである。

 さらに「買い物」もこのドラマの見どころで、近所の商店街にある「中村屋」という食料品店へ主として西島が行って買い物をするのだが、いくつかある店の中で一番安い店を狙っていくから、他の店で牛乳二パックを買ってしまったあと、中村屋へ来ると、そこの牛乳のほうが六円安いことに気づき、仰天してレジにいる唯野未歩子の店員に、「低脂肪乳の特売って、毎週木曜でしたよね」と問い詰めるのだが、唯野は仏頂面で黙って後ろに貼ってあるチラシを指さす。すると、「他店に対抗して本日限り」値引きと書いてあり、西島が「見落とした」と内心で思う。

 私個人は、こういう、複数の店での数円の格差を気にする買い物をしたことがない。やれと言われても面倒でできない。だからかえって、「ちゃんとした生活者」へのあこがれをかきたてられる。唯野未歩子も実は前から好きな女優なのだが、彼女は西島が鶏肉の値段が高すぎて買えないと内心で悲鳴をあげている時、妖精のようにやってきて、値下げのシールを機械で張り付けてくれ、西島と内野が二人で来た時に、ゴホンゴホンと咳をして、安値になっている品を教えてくれ、二人が喜んでいるのを見て、初めて笑顔を見せるのである。

 一番おいしそうだったのは、内野がサッポロ一番みそラーメンで具をたっぷり入れて作るラーメンであった。しかしこれを観た当時、私は適正体重の55キロに落とすダイエット中で、今後もあまりカロリーの高いものは食えないし、西村賢太が暴食の末に急死したあとだったから、似たように調理して食おうとは思わなかった。

 ところでこの「中村屋」という、ドラマの舞台の一部でもある食料品店は、江戸川区の平井に本店があり、西島らがよく行っていたのは新小岩の支店で、ドラマの撮影に合わせて店の曲を作り、ドラマでは店内に入るとその曲がエンドレスで流れていて、私はこの曲が好きで、これもアマゾン・プライムで聴けるので何度か聴いていた。実際の店でも流れていたのか分からないが、実際の新小岩店はこのドラマを私が観ているころに閉店してしまったらしい。

 「まんが日本昔ばなし」みたいな古風な歌で、子供数人で歌っていて、最後に「オレ!」と闘牛士歌風になっている。作曲は福島節という人だが、このメロディは何かに似ている、と思っていたのだが、先日、1960年に守屋浩が歌ってヒットした「有難や節」に似ていることに気づいた。「タータタたからか中村屋」と繰り返すあたりが「有難や」の繰り返しに似ているのである。これは名古屋あたりの俗曲を採取して編曲したもので、似ているといってもパクリとかそういうレベルではなく、日本の俗曲によくある節回しというだけのことである。

 ところで私が自分で料理ができるかというと、半日かけて食材を買い込んでするのはともかく、日常の食品を作るのは、カナダ留学時と大阪滞在時に二度挫折している。

 

丸山健二という人

 綿矢りさらに抜かれるまで、最年少23歳で芥川賞をとった丸山健二は、私が大学生のころ(1982-)「朝日新聞」紙上の小さなコラムに「ガキの小説」というのを書いていた。今のアメリカの小説は「ガキの小説」になってしまったというのだ。具体的にどういうものを指しているのか分からないが、若い私は何だか痛快に思って切り抜いておいた。それから数年して、今の文学がダメなのはやっつけ仕事のせいだ、というコラムを書いていた。私は、そうかな? と首をかしげた。

 丸山は、芥川賞以後、すべての文学賞は断っている、もうあんな騒ぎはごめんだからだと言っていた。だが、実際には候補にはなっている。

(「直木賞のすべて」川口則弘より)

 文学賞を辞退するなら、候補の段階で辞退するもので、候補作として名前が出ているのは辞退していないからである。

 そして丸山は次々と長大な作品を世に問うてきたが、だんだんページ面がスカスカの散文詩みたいな体裁になっていき、売れなくなり、大手出版社からも出なくなり、柏艪舎という丸山ファンが経営する出版社から本を出すようになった。そもそも純文学というのは、売れること自体が例外的なので、そうなること自体は別にいい。

 『真文学の夜明け』はその柏艪舎から2017年に出た長編エッセイで、いかに今の日本の文学が堕落しているかを執拗に、例の散文詩みたいな書き方で書いている。しかし、最初のほうでは、海外の文学もダメだと書いていたはずが、あとのほうでは「日本」に限定されていく。これは『自由と禁忌』の江藤淳も、戦後のGHQの検閲のせいで日本文学はダメになったと言いつつ、では海外の作品はいいのか、という疑問にはまるで答えていない本であったのに似ている。江藤も丸山も、実は現代の文学作品なんか碌に読んでいないのだ。

 丸山は「白鯨」「ツァラトストラかく語りき」「徒然草」「平家物語」を優れた文学としてあげつつ、現代のどういう作家や作品がダメなのか、具体的にはまったく言ってくれない。反論されると困るからであろうか。芸術院文化勲章を批判しているから、まずは芸術院会員や文化勲章受章者が標的なんだろうが、村上春樹渡辺淳一をイメージしているみたいな描写もある。だが村上春樹はまだ芸術院会員ではない。

 確かに、現代の文学が、過去の文学に比べて衰弱しているのは確かだが、では大江健三郎はどうなのか、ちょっと聞いてみたくはある。しかし丸山は、文学の基準を一から二十までに分け、自分の作品は15、芥川賞受賞作は2から3,自分が開いている小説塾の塾生の作品は5になるなどと揚言しているから、あまり信用はされないだろう。しかし丸山は私小説が日本独特のダメな形式だと思っているようだが、「徒然草」だって部分的には私小説であろう。しかし、「平家物語」と「徒然草」って、「源氏物語」「枕草子」は入れないということで、要するに女が嫌いなんだろうこの人は。マッチョでミソジニーだなあ。

小谷野敦

それまでの否定

もう7年くらい前になろうか、私が何度めかの、中井英夫の「虚無への供物」はわけが分からないというのを書いた時に、斎藤慎爾が、安藤礼二の『光の曼荼羅』で論じられていると言っていたので、それを読んでみたら、安藤は、これまでの論者は「虚無への供物」をちゃんと読めていなかったと言っている。私は不思議に思ったのだが、世間の人がわあわあ言うから、私はわざわざわけが分からないと言っているのに、安藤のように言ったら、今までの人たちはみな間違いながら騒いでいたことになる。まあ、間違いながらもすごい魅力のある作品だと言いたいんだろうが、それが私にはちっとも感じられないのだから、私には意味不明な言辞となる。

 批評には時どきこういうことがあって、これまでの「××」解釈はみな間違いだった、と大上段に振りかぶられると、でもこれまでもその「××」は名作だとされてきたんで、じゃあみんな間違いながら名作扱いしてきたってことですか、と訊きたくなるのだが、どういうもんであろうか。

昭和の「まじめ」

阪大へ就職してひと月ほどした五月ごろ、言語文化部が教養部から独立した十周年祝賀パーティーというのが開かれて、生協の二階の食堂に集まった。私らみなスーツにネクタイ姿だったが、一人だけ、ネクタイをしていない40代くらいの教員がいた。ヨコタ村上ら30代半ばの連中が、ひそひそと、あれはどうなんだ、などと話していて、ヨコタは50代くらいの教授に文句を言ったりしていた。冗談めかしてではあったが、変なことにこだわるやつだと私は思った。「(彼は)くそまじめだから」と言う人もいたが、男女問わず性的な話をしかけ、女性職員に酔って「あんたとセックスしたい」とか言い、女子学生を研究室に連れ込んでセックスしてしまうこの男は、なるほど「昭和のまじめ男」なのだなと私は今にして思うのである。

ポモ崇拝者誕生の時

2002年の12月に、東大比較文学出身者による「恋愛」シンポジウムが行われた。その時、「ドン・ジュアン」の比較文学などは成立しないと、プリンストン大学に提出した博士論文で主張していたヨコタ村上孝之は、その話をして、「じゃあドン・ガバチョ比較文学ってのもできるんですか」と言った。ポモ的詭弁であって、単に「女たらし」をドン・ジュアンで代表させたことを利用した言葉遊びに過ぎない。

 だが出席していた大澤吉博教授は、そういう正面からの反論はせず、「ドン・ガバチョ比較文学、いいんじゃないですか」などと言っていた。これは午前中の部で、私は客席にいたから何も言えなかった。午後の部では私とヨコタの言い争いになった。

 後日、比較研究室で、東アジアから来た留学生女子が、ヨコタのことを「頭がいい」と言うのを聞いて、ああいうペテンに引っかかる学生や若者がいるからポモが跋扈したんだなと思ったことであった。

小谷野敦

生殖器に電流を

私は英文科を出て比較文学の大学院に行ったが、二年目に英文科で高橋康也先生が開いている大学院のゼミに出席した。阿部公彦河合祥一郎といった人たちがいた。そこで知り合ったT君は、法学部から英文科の大学院へ来た人で、親の命令でいやいや法学部へ行かされたということで、いろいろ話してみると文学に関心が深く、親しくなった。

 その後私はカナダへ行き、大阪へ行きしたが、T君はある大学に勤めてから東大の助教授(駒場)になり、あれこれ話をしたが、東大へ行ったころ、ポスコロをやると言いだしたから、ちょっと嫌な予感がした。私は当時、精神分析とかポモとかポスコロとかカルスタとかいうのをうさんくさく感じ始めていたからだ。

 2009年に、T君の単著が送られてきた。読んでいて私はギョっとした。ハロルド・ピンターを論じた個所で、ピンターがトルコへ行って、アメリカのトルコ政策はひどい、と話していたら、別の人が「いや、背後にソ連があるから仕方ないのですよ」と言った。するとピンターは「いや、私たちは生殖器に電流を流す話をしていたんだよ」と言ってごまかしたというのだが、T君はピンターのこういう発言を礼賛していたのである。これで、ああ、もうこの人はダメだ、と思った。見ているとポモにやられた人になってしまったようで、ご多分に漏れずフロイトにもやられていたらしく、ほぼ絶縁状態になったが、早くまともな学問に立ちかえってほしいものだ。

小谷野敦

 

対談集の夢

 私は若いころ、山崎正和とか江藤淳みたいな有名文化人になりたかったが、結局それは半分くらいしかかなわなかったと言うべきだろう。

 30代半ばで「もてない男」が売れた時は、もっと売れていくつもりでいたが、まあそうもならなかった。まあ当ての外れたのは、大学へ再就職できると思っていたことで、これが一番でかいが、あとはもっとあれこれ「対談」の仕事があって、対談集なんかもできるだろうと思っていたのも、当てが外れた。

 あの当時、西部邁の『論士歴問』(1984)とか上野千鶴子の『接近遭遇』(1988)とかの対談集も出ていて、どちらも面白かった。この二人の著述よりこっちのほうが面白かったし、西部も上野も、その後は派閥を形成したりして狡猾で陰険な人になっていったが、当時はまだ若くて誠実だった。

 まあ私も対談とか鼎談をかき集めれば一冊になるくらいはあるんだろうが、中にはあまり成功しなかったのとか、決裂寸前なのとか、相手が刑事罰を受ける人になったのとかあって、まず無理だろう。しかし有名文化人が対談集を出すというのが、まだ本が売れて、今みたいにネットであくたもくたがものを言わない時代の産物だったのだね。

小谷野敦