小宮彰さんと「左翼」

 私の大学院の先輩に小宮彰(1947-2015)さんという人がいた。フランス科から比較文学に進み、東京女子大で長く教えていた。比較の集まりにも当初はよく姿を見せていたが、七年前に68歳で独身のまま急逝した。一冊だけ「ルソーとディドロ」という単著を死去の数年前に出したがそれ以外に著書はなく、地味な人という印象だったが、最初のころ、学会の懇親会で「食べなきゃ嘘だよ~」などとおどけていたのを覚えている。

 歿後、友人の大嶋仁さんらが編纂した『論文集・寺田寅彦その他』を図書館で取り寄せて読んでいたら、追悼文がいくつかあった。

 小宮さんは、先に急逝した大澤吉博さん、上垣外憲一氏などと三羽烏のように思われていたが、初期の論文に「ルソーと安藤昌益」というのがある。しかし、これはいずれも平等思想の人で、右翼的な東大比較とは合わないんじゃないかという疑念を私は長く抱いていたが、今回その追悼文集を見ていたら、私の後輩の吉田和久の追悼文に、「僕は右翼は嫌いなんだ、左翼だからね」と小宮さんが言ったとあるのを見て、ああやっぱりそうだったかと思った。もっとも書いている吉田は、私の見る限りでは右翼っぽい。

 追悼文をざっと見ていくと、芳賀徹先生の弟子ということをみな書いているが、平川祐弘という名は出てこないし、上垣外の名も出てこない。安藤昌益を発見したのはカナダのハーバート・ノーマンだが、平川は、小宮さん死去より前から、ことあるごとにノーマンを槍玉にあげ、エジプトへ逃げて自殺した共産主義者と罵るようになった。小宮さんは東京女子大の哲学科で林道義を中心とした紛争に巻き込まれ、林の宿敵とされて苦しみ、それで寿命を縮めたとまで書かれているが、平川のノーマン攻撃も寿命を縮めたのではなかろうか。(その割にここで追悼文を書いている人は、西原大輔とか右翼っぽい人が多い気がする)

 けっこう小宮さんも私と同じで、左翼なのに右翼っぽい東大比較で苦労した人だったのではないかと思った。まあそれなら三島憲一のように遠ざかってしまえばいいのだがそれが出来なかったのだろう。

 そういえば2007年の3月だったか、武蔵大学で開かれた比較文学会東京支部例会で小宮さんは安房直子について発表したのだが、途中で朗読しながら軽くすすり泣いたことがあり、小玉晃一という人がそのことを書いていたが、20年くらい前に成城大学だったか、と書いていた。この本からしたら十年前であったが。

小谷野敦

どうして男はそうなんだろうか会議 ――いろいろ語り合って見えてきた「これからの男」のこと ・澁谷知美・清田隆之編    アマゾンレビュー

フェミニズム系男性論
星2つ 、2022/09/26
渋谷や清田らは「フェミニズム系男性論」の書き手だから、本書もそういうバイアスの下で書かれている。私の『もてない男』は、批判したいならすればいいのに(しかも筑摩書房の本で)完全に無視。「セックスの相手がいない苦しみ」を、彼らはいつものことだが「童貞であることをからかわれる苦しみ」に話をすり変えてしまう。ソープランドへ行ってもいいのかどうかという問いさえ出てこないし、坂爪真吾でさえ無視されている。前川直哉が「ホモソーシャル」について修正しているのはいいが(女のホモソーシャルもある)、「ミソジニー」といったら漱石の「こころ」だろうと私は思う。北村紗衣の名も出てくるが、北村のタランティーノ好きには、女は暴力好きでもいいのか?(「ババヤガの夜」とか) という疑念を私は感じるのだが、そういうまずいところには突っ込んでくれない、フェミニズム検閲済みの本である

三進堂書店のおやじ

御茶ノ水駅南側丸善の向かいに古本屋があり、駿台予備校へ行っていたころや大学時代御茶ノ水へ出る時などよく寄ったものだが、ここのオヤジが何とも変な人で、カウンターに座って手でタンタタタンタタとリズムをとり、買う段になると妙に手早くむっつりとした感じで包装をしていた。

 私が行っていたのは80年代だが、妻は2000年代に行っていて、そのころは年齢も70歳近かったせいか、立ち読みしている客に、独り言のように「待っても安くならないよ~」とか言っていたらしい。

 調べてみると2019年にこの吉田治男というオヤジは死んで、店も閉店することになったらしい。私はよく隣の小さい中華料理店で昼飯にチャーハンを食べたりしたが、それは今では大きい店になっているのかな。

小平麻衣子(おだいらまいこ)の<未熟>

小平麻衣子(慶大教授、日本近代文学)が「日本近代文学館」の館報で一ページ分の「配合と組み合わせ」というのを書いているが、何だか文章がぎごちなく、下手である。今度「日本近代文学大事典」の新版が出るので、その項目執筆をしていて、昔自分が書いた項目を見ていたら、「未熟」だと思ったという。ところがその理由が「事実の提示が多いこと」だと書いてあり、「この書き手ならではの独自な切り口」を求める人もいるだろうという話である。

 だが普通に考えたら、若いうちは、若気の至りであれこれ独自の見解を盛り込んだ「事典の項目」を書いてしまうのが「未熟」というもので、成熟してくると、そういうシャバっけは抜けて、サラサラと事実だけを提示するようになるというものではないか。ここでの小平の「未熟」のとらえ方は、普通とは逆である。

 もう15年くらい前だろうか、小平が文藝誌か何かに書いた、衒気満々の難解文章を、私は「第一回悪文大賞」に選んだことがある。当時、NHK講座で「尾崎紅葉」など、当時あまりやる人がいなかった対象を研究していて、好感を抱いていたのだが、その後はさすがに難解文章は影を潜め、実証的な研究をするようになった。しかしまた妙なことを言いだしたものだな、とちょっと苦笑したのである。

小谷野敦

ゴジラ1万2千トンの衝撃

初代ゴジラは、身長50メートル、体重2万トンという設定だった。今では、この大きさの生物が地球上で直立できないことは常識になっているが、そのことはここではひとまず措く。

 1974年ころ、テレビアニメ「コン・バトラーV」で、巨大ロボットコンバトラーVの歌に「身長57メートル、体重550トン」というのがあったが、そのためか、私の若いころ(1980年代)には、ゴジラの2万トンというのは重すぎだというのが常識になっていた。実際、象や鯨と比べても、シロナガスクジラが30メートルで200トンなのと比べたら、いくらゴジラが筋肉質で太っていても二ケタも違うのはおかしいと思った。

 柳田理科雄の『空想科学読本』は、最初の巻(96年)では、ゴジラの体重を「510トン」と算出しており、なるほどそうだろうと私も納得していた。ところが最近出ている新版では、「1万2千トン」と書いてあると聞いて、何かの間違いだろうと思って調べることになった。

 どうやら発端は、山本弘の『こんなにヘンだぞ! 空想科学読本』(2002)で、ゴジラの体重が軽すぎると書かれたことらしい。柳田はウルトラマンについて、860トンとしていて、ウルトラマンゴジラより重いのか、などと散々突っ込んでいた。柳田はこのころには間違いに気づいたと言い、最終的に1万2千トンになったという。山本自身の計算では、初代ゴジラが2100トン、84年ゴジラ(80メートル)が8700トン、91年ゴジラ(100メートル)が1万7千トンとなっており、柳田は果たしてどのゴジラについて1万2千トンと言っているのか分からないのだが、初代ゴジラだとすると重すぎるから、100メートルゴジラのことであろうか。しかしそこからもとに戻ってみると、コンバトラーVは軽すぎるらしい。

音楽には物語がある(45)運動会と音楽 「中央公論」9月号

 前にも似たようなことを書いたが、子供のころ、運動が苦手だったから、運動会の日は嫌だったとか書く人がいる。人形劇「プリンプリン物語」では、メガネくんキャラのカセイジンが、運動会の日はおなかが痛くなって休んじゃった、と言っていた。後者はともかく、前者は、本当に運動が苦手だったのかうさんくさいと思う。なぜなら、運動が苦手な人間にとって嫌なのはまず球技である。しかるに運動会には球技はない。水泳も苦手だが、運動会に水泳はない。

 インベカヲリ★さんという写真家で、ノンフィクション作家でもある人のエッセイ『私の顔は誰も知らない』(人々舎)を読んでいたら、インベさんも運動が苦手で、子供のころドッジボールが嫌だったと書いてあるのを見て、そうそう! と膝を打ってしまった。ドッジボールというのは、いじめ以外の何ものでもない。もしかしたら、この世にドッジボールがなかったらいじめはなかったんじゃないかと思うくらいである。子供のころ私は本当にドッジボールが嫌だった。当てられるのは当然として、当て返すこともできないのである。私が投げた球は、ただへなへなと、球技の得意な相手にキャッチされるだけであった。

 ところが、仲間を発見、と思ったインベさんは、大人になってからは運動が普通にできるようになったという。私が、水泳って息継ぎができないから大変だと言ったら、それは私よりひどい、と言われてしまった。

 しかしよく考えてみると、私は運動会はわりあい好きだったのである。十月ごろになって、ミカンの匂いなどが漂ってくると懐かしささえ覚える。といっても、一家揃って観に来てくれてそこで食べるということはあまりしなかったから、それが懐かしいのではない。むしろ「コロブチカ」とか「オクラホマミキサー」とか「秩父音頭」とかの集団舞踊がわりあい好きだったのだが、それは舞踊が好きなんじゃなくて音楽が好きだったのである。

 小学生当時は、録音装置もなければ、わざわざレコードを買うほどにも思っていなかったから、「トランペット吹きの休日」とか「クシコス・ポスト」とか「道化師のギャロップ」とかいう音楽は、運動会でのみ遭遇できる音楽だったのである。あとはタイケの「旧友」というマーチがあまりに好きで、中学生になったころにそれが入ったLPを買ったら、それ以外がほとんどアメリカのマーチ作曲家のジョン・フィリップ・スーザの曲だった。あと「サンブルとミューズ」というフランスの軍歌も入っていて、そのころ、中卒だった母がNHK学園の通信制高校に行っていて、そこで習っていた歌を歌っているのを聴いたら、同じ曲なのである。これはその曲に阪田寛夫が「誰かが口笛吹いた」という歌詞をつけた歌で、それだけ聴くとちっとも軍歌には思えない。その点、日本近代は「雪の進軍」などはあるが、軍歌っぽいのが多い気がした。

 だがそれから私はクラシック好きになりはしたが、結局は「運動会の音楽」的な曲が好きであり続けている。たとえばメンデルスゾーンの「イタリア」の第一楽章などである。「みんなのうた」でもやっていた「海のマーチ」という、デイヴィッド・T・ショウの「コロンビア、大洋の宝」という曲に小林幹治(一九三三―二〇〇四)が歌詞をつけて「みんなのうた」で放送された曲で、私は小中学校のころこの曲を聴いて以来好きなのだが「かもめ飛ぶ青い空」という始まりは、鷹羽狩行の代表句「船よりも白い航跡夏はじまる」を知った時にたちまち思い出したものだ。

 

「偏平足」の謎

 「ドラえもん」の最初のアニメは、成功せず短期間で終わってしまったが、その主題歌に「偏平足だよ」という歌詞があった。これに限らず昔の言説に「偏平足」を笑いものにするものがいくつかあったが、なんで偏平足というのが笑いの対象になったのか、謎である。