「勝手にしやがれ」の思い出

 

 

 

1987年の10月1日、私は比較文学の院生一年目だったが、有楽町スバル座ゴダールの「勝手にしやがれ」と「気狂いピエロ」二本立てをやっていたから観に行ったら、一年生の時の同級生だった男Sに会った。Sは卒業して就職していたが、一人で来ていたから、お互い一人で映画を観に来る境遇という感じがあった。
 しかし私にはこの映画は二つとも意味が分からなかった。Sは終わったあと「面白かったなあ」と言っていたが儀礼的な感じで、別に面白かったという表情はしていなかった。

腐った鯨と「ちりとてちん」

吉村昭の『北天の星』は、レザノフが長崎で日本との通商を断られたあと、自分はアメリカ大陸へ渡り、部下のフヴォストフとダヴィドフに、腹いせのため日本の北海を荒らすよう命じた際、択捉島でロシヤ人に連れ去られた中川五郎治を主人公にしている。のち五郎治は、仲間の左兵衛とともに日本へ向けて逃亡するのだが、途中、樺太の対岸で雪の中で道に迷い、ギリヤーク人の家に入れてもらうと、鯨の肉を煮ていたが、それはかなり激しく腐っていた。五郎治は一口食べて、食べるのをやめ、左兵衛にも、食うなと言うのだが、空腹に耐えかねた左兵衛はたくさん食ってしまう。左兵衛とギリヤーク人は、そのあと激しく嘔吐を始め、死んでしまうのである。腐った肉を食うと死ぬこともあるのかと思ったが、私は「酢豆腐」とか「ちりとてちん」のことを思い出した。「ちりとてちん」のほうが、腐ってからかなりたっているのでやばい感じがするのだが、あれは食ったら死ぬんじゃないか、と思うからで、もし死んだら、食わせた連中は殺人罪である。あれは「決してまねをしないでください」とテロップを入れるべき落語じゃないかという気がする。

 

 

ある種の侮ってはいけなさ

 

 

私が阪大へ行ったのは94年4月だが、宮川先生という50歳になったばかりの少し白髪の英語の先生がいた。阪大出身の英文学者であった。9月に、博士論文として提出する予定の『自然と詩心の運動 : ワーズワスとディラン・トマス』という著書をいただいた。何げなく読んで「えっ」と思った。面白いのである。正直言って、宮川先生はいかにも凡庸な感じがして、つまり侮っていたのだが、侮ってはいけないなあと思った。ちゃんと説明してあったし、覚えてはいないのだが、言うべきことは言ってあるという感じがした。

 ヨコタ村上などは、宮川さんを嫌っていたのか、「君あれ読んだ?」と言うから「読みましたよ」と言ったら「本の蟲だな」などと暴言を吐いた。こういうものの侮ってはいけなさというのを、ヨコタ村上などは知らずに生きていくのかもしれない。

 世間には、普通の学者が普通に書いたいい本というのがあるが、そのことは知っている学者は知っていて知らない学者というのがいる。阿部公彦の詩の本など読むと、かっこいい感じがして、詩が分かった気がする。そのことがもたらす侮りには注意しないといけない。

西洋彫刻と口なし

日本の巨大ヒーローは、アニメ・特撮を問わず口に、西洋彫刻型と口なし型があり、どちらとも違うウルトラマン型がある。西洋彫刻型というのは「勇者ライディーン」みたなもんだが、要するに人間の口をそのままデザインしたもので、最初は「ジャイアントロボ」あたりになろうか。「口なし」は「マジンガーZ」が最初だ。富野喜幸も「ダイターン3」では彫刻型だったが、「ガンダム」が口なしでヒットしてからはずっと口なしが主になっている。

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巨大ヒーローの口

 

 

 

学問の流行

 

 

1997年5月に、小森陽一, 紅野謙介, 高橋修 編『 メディア・表象・イデオロギー : 明治三十年代の文化研究 』(小沢書店)という日本近代文学の論文集が出て、話題になったことがある。ところが、なんで話題になったのか、内容が斬新だとか、優れた論文があるとかいうことではなく、当時流行しかけていた「カルチュラルスタディーズ」の論文集を、東大教授で文学研究の指導的立場にあった小森陽一らが出した、これがお手本だということで話題になったに過ぎなかった。実際私は一年前の96年3月に八王子セミナーハウスで開かれた漱石をめぐるワークショップに出て、小森が、これからカルスタをやると言っているのを聞いていた。

 この現象を批判したのが、林淑美の「展望 最近の近代文学研究におけるある種の傾向について--(ホモ・アカデミクス)の(イデオロギ-装置) 」(『日本近代文学』 1998-05)で、林は中野重治を専門とする研究者だったが、内容ではなく流行が専攻し、小森のようなボスが支配する状態を批判したのである。学界的には林は不遇だったが、私は当時阪大にいた出原隆俊先生の手をわずらわせてこれを入手したのを覚えている。

 まあ1980年代から「流行の学問」というのがあって、ニューアカだったりポスコロだったりカルスタだったり網野善彦だったりホモエロテイクスだったりして、最近では震災とか感染症がはやっていたりするが、学者の中には流行とは関係なく実証的な研究を地道にやっている人がいて、そっちのほうが偉いと私も思うのだが、マスメディアはどうしたって流行の学問のほうを好むものであるなと。

ウルトラマンとマグマ大使

ウルトラマンの成立については、はじめベムラーという、日活のガッパみたいな造形の、人間の味方をする怪獣を考え、それからレッドマンというゴツゴツしたヒーローを考え、それからウルトラマンになったとされている。

 しかし、ウルトラマンより早く放送が始まった「マグマ大使」を見ると、もともと手塚の原作があり、「ビッグX」もあって、人間に近い巨大ヒーローというアイディアは円谷にもあり、それとは違うものを考えたが、結局はマグマ大使寄りのものになったということかと思う。マグマ大使は当初、人間の顔を出す案もあったというが、それだと巨大感が出ないことは、シルバー仮面ジャイアントになる時の処理で逆に証明されている。

 だから、ベムラーとかレッドマンというのは、むしろ最初にマグマ大使的なアイディアがあって、それとは違う方向も考えてみた結果なんじゃないかなあ、という気がしている。

 

 

 

間宮林蔵・探検家一代―海峡発見と北方民族 (中公新書ラクレ) 高橋大輔    アマゾンレビュー

そんなに変かね?
星2つ 、2021/09/01
間宮林蔵については私も一書を著しているのだがこの本の参考文献にはない。読んでいくと、例のシーボルト事件について、林蔵がシーボルトからの手紙を開封せず幕府に届けたことを、著者は「意外な行動」と言い、なぜそんなことをしたのか、と追及していく。だが、当時は無届で外国人とやりとりしてはいけなかったから規定通り届け出ただけだと、著者が参照している赤羽栄一の本にも書いてあるので、謎ではないことを著者が謎がっている変な本になってしまっている。