映画「全身小説家」の感想

原一男井上光晴が死ぬまでを撮影したドキュメンタリー映画全身小説家」を、私は2000年ころ観ようとしてビデオを借りてきて最初のほうを観て、ガンと診断される場面を見て、これで最後に死ぬんだと思い、恐怖を感じて残りは見ずに返してしまった。

 先日、映画「あちらにいる鬼」という、娘の井上荒野が、井上光晴瀬戸内寂聴の愛慾関係を描いた小説の映画化を観て、井上がやっていた「文学伝習所」の教え子であった山下智恵子の「野いばら咲け」を読んだ。井上は伝習所に来る既婚婦人らにかたっぱしから言い寄りキスしたりセックスしたりしていたらしく、「全身小説家」にもそのことが描かれていて、映画が出たあとで伝習所の女性らから、抗議しようという声が上がったが山下はそれには乗らなかったとあった。

 そこで改めて「全身小説家」を観てみたのだが、これの主題は「嘘つきミッチャン」ということで、自分の子供時代のことについて、旅順生まれとか、父が失踪したとか、中学受験ができなかったとか、初恋の美少女の崔鶴代が遊女になったとか言っていたのが全部ウソだったというのが主題だったらしい。中学受験に至っては落ちたというのが真相だったという。

 最後に井上の葬儀で瀬戸内寂聴が挨拶をして、私と井上さんは男女の関係でなく親友になったと言っていたが、特典映像の斎藤学(さとる)との対談で原が言うには、埴谷雄高が、これは真っ赤なウソで、紫衣を着てウソをついている、一番の嘘つきは瀬戸内寂聴だと言っていたと話している。周囲の人はみんな知っていたという。

 もっとも私は嘘がどうとかより、井上光晴の賑やかな生活ぶりに割と唖然としていた。私も猫猫塾というのをやっていたが酒は飲まなかったし実に淋しいもので、自宅へ人が気軽に訪れるなどということはなかったから、人気作家というのはすごいものだなあ、と思うばかりであった。

 ところで「崔鶴代」という女優が演じた遊廓へ少年が行くところは、大林宣彦の「はるか、ノスタルジイ」(1993)と妙に似ていたが・・・