「恋飛脚大和往来」の件は、国立劇場へ電話したら、1967年の東横ホールでの上演(扇雀、田之助)の時にはもうあったと言う。
児玉竜一・早大教授・演劇博物館副館長にお尋ねしたところ、以下のお返事。
「
難しいご質問で、、、 「封印切」の当該部分は、演者の口立て(アドリブ)に任せているとされているところもあるので、定本として、どこからと確定するのは難しいかもしれません。また、今でこそ、かなりいい役者が八右衛門に出ますが、かつては脇役の役どころですので、誰それの型、というようなことで残っている例もありません。 たしかに、最近はほぼみんな言います。 現存する音声・映像で確認したところを申しますと、 1963年3月歌舞伎座の三代目延若と十七代目勘三郎 勘三郎の八右衛門は、言ってます。 1968年4月歌舞伎座の二代目鴈治郎と八代目三津五郎 三津五郎の八右衛門も、言ってます。 1978年11月芸能百選(スタジオ歌舞伎)の二代目扇雀と二代目鴈治郎 鴈治郎の八右衛門も、言ってます。 1983年12月南座の二代目扇雀と初代孝夫 孝夫の八右衛門も、言ってます。 おそらく、以後の八右衛門は、みな言っていると思います。 これ以前のライブ音声は残って居らず、戦前の 初代鴈治郎のSPレコード(1932年)八右衛門=二代目市川箱登羅 二代目延若のSPレコード(1933年)八右衛門=五代目嵐橘三郎 こちらは、双方とも、言っていません。 ですので、<1960年代以降は、言っている八右衛門が多い。戦前までは、この語句は定着していないようである>とぐらいは言えるでしょうか? ひとつ付け加えると、この「金のないのは首のないのも同じこっちゃ、あのここな、ど甲斐性なしめが」というのが、最近では、封印が切れる(封印を切る)直前の決め台詞のようになっています。1963年の勘三郎は、この台詞で忠兵衛の頬を叩き、忠兵衛がそれにさらに激昂してゆく、となっていて、決め台詞にはなっておらず、現在のやり方とは少し違っています。ですので、その時点では、この台詞を含めたやり方が固まっていなかったとも推測できます。」 というわけで、私の感じでは1960年以降につけ加わったセリフという気がする。児玉教授には感謝したい。
(小谷野敦)