節子の恋(11)

 昭和七年、長谷川が釈放されて戻ってきた。ところが、プレッシングの店で働きたいと言ってきた二十一歳の娘と長谷川はたちまちできてしまい、嵐が吹き荒れた。節子は三十九歳になっていた。
 翌年、節子は長谷川とともに上京したらしい。鈴木安蔵と結婚して鈴木俊子になっていた栗原の娘を頼ったのである。向島の吾嬬無産者託児所で保母として働いたりした。節子は九月に女児を生み、紅子(こうこ)と名づけられた。はじめホイール(歯車)と名付けたというが、出生届の提出が遅れたので罰金二十円をとられることになり、ある晩、姉の愛子をひそかに訪ねてその金を借りて行った。だが長谷川は再度投獄され、昭和四年三月には節子から去っていった。
 節子は巣鴨の城北消費組合の二階四畳半の間に転居し、紅子と暮らしたが、貧苦の中で政治活動を続けた節子は、年とってからの出産が祟って自身の体調も悪い上、紅子が病気がちで、昭和十一年暮れには自身も胸部疾患に罹り、切羽つまった。方面医院が心配してくれ、国際聖母病院への節子の入院をはかったのだが、病院側では、医療費が払えないことと、特高に睨まれていることで入院を拒否した。そして三月三日、板橋五丁目保養院という救貧施設に入院したのである。
 節子を監視していた特高警察が、このことをいち早く岸本らに知らせ、静子と節子の姉・輝子は、巣鴨警察から、金を届けるように言われ、あわてて持って行ったが、警察では、「金さえ届ければよろしい。会う必要はない」と言ったので、二人は節子には会わずに帰った。どうやら警察は新聞にも伝えたので、「東京日日新聞」が、『新生』のヒロインが行倒れで救貧院に収容された、とスクープした。節子の周辺でも、岸本に救いを求める案があったのだが、代理人が手間どっている間に新聞記事が出てしまったのである。
 林芙美子が病床の節子を見舞い、ルポ記事「女の新生」を書いて『婦人公論』四月号に載せた。芙美子の病床での取材に節子はあれこれと答えたが、中で、
 「あの『新生』も、ご自分に都合のいいことばかりですもの・・・。私はあれが発表された時、ほんとうにちぢかんだ思いでした。もう、めちゃくちゃだと思ったりもしました。……・でもねえ、一生懸命で生きようとは思いました。親戚すじから離れてしまって、ここまで生きてきましたけれどねえ……力が足りなかったのです」
 などと答えた。芙美子は、

 私はその作品(『新生』)を思い出して、女の新生というものはみじんも書かれていないこの作品に、私はこんな結果が来るのは当然のことではないかと考えたりもします。「新生」という作品は岸本という男の主人公の新生であり、作中の不幸な女性、節子さんの新生ではあり得なかったのだと思うのです。

 と岸本を非難した。もっともそのあと、「岸本氏にとってはこれがせいいっぱいだったことなのでしょう。だから、節子さんも、あんなにのびやかにしていて少しも荒んでいないのですもの・・・」と書いている。岸本は、
 「節子とは二十年前に東と西とに別れ、私は新生への道を歩いて来ました。当時の二人の関係は『新生』に書いてあることで尽きていますから、今更何も申しあげられません。それ以来、二人の関係はふっつりと切れ道は全く絶たれていたのです。あの人もあれからあの人自身の道を歩いていたのでしょうが、その後何の消息もありませんでしたが、三年ばかり前、病気だからといってあの人の友人が飯倉の家に来たことがありました。その時にはいくらかの金を贈りました。これが今までの後にも先にもたった一度の交渉です。最近はどうしているのか、また病気で養育院に入ったというのも初めて聞きます。もし本当なら、あの人の姉がおりますからその姉と相談して何とかせねばなりますまい。私が勝手に一人でどうすることは今の私にはできません」
 という談話を新聞紙上に載せた。
 節子も『婦人公論』に求められて、五月と六月の二回にわたって「悲劇の自伝 名作『新生』の女主人公の悲しき半生」を寄稿し、岸本を批判した。そのため世間では岸本に非難が集まった。
 だが節子は、『新生』は事実を描いているが、全部は書いていない、三分の一くらいだ、としながら、岸本がどのような都合の悪い事実を書かなかったのか、この時も、戦後の取材でもほとんど答えてはいない。せいぜい、岸本が『新生』を書くか書かざるべきか大変苦しんでいたので、節子が書くよう勧めた、と言っているだけである。あるいは節子は、その後が書かれていない、と言っていたのだろうか。
 岸本は、その時六十五歳だった。昭和十年に大作『夜明け前』を完成させ、日本文壇の重鎮として重んじられ、有島生馬とともに日本ペンクラブを組織し、会長となり、前年アルゼンチンの国際ペンクラブ大会に出席していた。重鎮であっただけに、節子の事件は打撃を与え、六月に帝国藝術院が組織されて会員に推薦されたが辞退した。また病に倒れた。
 節子は退院後、姉の輝子の世話で郷里の妻籠へ帰り、娘の紅子を育てた。祖母もまだ存命だったが、村の人たちは節子を「アカ」だとして敬遠し、村八分になっていた。戦争が始まり、岸本は文壇の重鎮として文学報国に挺身したが、「東方の門」の連載を始めたところで病に倒れ、死んだ。
 戦争が終わり、紅子は順天堂大学へ進んで医学博士となった。昭和三十二年に、節子は六十三歳になっていたが、東京の江古田に転居した。