島崎藤村の「鈍感」

 ノースロップ・フライは『批評の解剖』の序文で、最近はミルトンの株は下がっているようだ、といったことは学問的批評ではないと述べている。とはいえフライも、聖書やシェイクスピアを自分が率先して論じることにはいくらかの矛盾は感じていただろう。

 この半世紀で、株が上がった文学者や下がった文学者について考えてみると、下がったほうではトマス・ハーディ、バーナード・ショー、D・H・ロレンスあたりか。トルストイも下がったかもしれない。

 日本では、バカ上がりしたのが夏目漱石である。もともと高かったのが、九〇年代以降上がりっぱなしで、大杉重男の懸命の抵抗に私は加担したいくらいだが、やまなし文学賞の研究部門では、三年続けて漱石研究書が受賞している。宮澤賢治も、荒川洋治吉田司の批判にもかかわらず上がったままだし、太宰治サブカルチャー込みで上がっている。下がったといえば、吉田絃二郎や高山樗牛は半世紀前にはもう下がっていたろうし、野間宏は死んだから下がったのだろう。死んだとかそういう要因を除いて言えば、下がったのは志賀直哉島崎藤村だろう。

 志賀直哉は昔から、どこがそんなに偉いんだと言われ続けて、ついに下がった感じだが、藤村となると、世間が藤村をどう思っているのかちょっと分からない。読まれていないわけではないが、話題になることは少ない。実証研究の大家だった伊東一夫も、『島崎藤村』で亀井勝一郎賞をとり、ミネルヴァ書房から評伝を出した十川信介も世を去った。

 梅本浩志『島崎こま子の「夜明け前」―エロス愛・狂・革命』(社会評論社、二〇〇三)や、森田昭子『島崎こま子おぼえがき』(文芸社、二〇〇六)も、本来受けるべき注目を集めなかった。もともと藤村は、姪との情事や母の不貞、姉の狂気など伝記的な面で注目されるところがあり、テキスト論の隆盛と、醜聞めいたものを忌避する傾向の双方にはさみ撃ちされて論じられなくなったというところがある。

 藤村が「新生」前編を「東京朝日新聞」に連載したのは、大正八年(一九一九)五月から十月までだが、作中では藤村は前の小説以来の「岸本捨吉」、姪のこま子は「節子」とされている。ほぼ事実その通りの小説なので、以後適宜実名と仮名を使い分ける。

 『新生』は、叔父と姪の間にセックスがあり、いったん叔父がフランスへ行くことでそれは途絶するが、帰国してほどなく再度セックスの関係が復活するという筋である。だが、叔父の姪に対する「恋」は、ほとんど、あるいはまったく描かれていないのである。むしろ、途中から、姪の、叔父に対する尊敬と恋慕だけが激しく描かれている。

 『新生』を改めて読んで驚くのは、節子の側の、文学者として名をなし、容貌もいい叔父への、子供さえなした関係からくる熱い思慕と、それに対してひどく鈍感な岸本である。むしろ岸本は節子を恐れ、節子から来た手紙を焼き捨てたりしている。

岸本―藤村は節子―こま子の激しいほどの恋心に気づいていないようで、こんな会話をする。

 

「どういうつもりでお前はああいう手紙を叔父さんの許へよこしたのかね」

 この岸本の問には節子は何とも答えようのないという風で、黙ってうつむいてしまった。

「俺は又、お前が自分の子供のことを考えて、それでああいう手紙をくれるんだと思っていた――そうじゃないのかね」

「今にもう何でも話します」

 節子は言葉に力を籠めて、唯それだけのことを答えた。何時の間にか彼女の眼には復た熱い涙が湧いて来た。それが留め度も無いように彼女の女らしい顔を流れた。

 

 近松秋江が懸念したように、藤村とこま子のセックスは、もっぱら藤村の性欲に発したもので、恋愛ではないだろう、とは誰も考えることである。それで藤村を非難する人もおり、のち京都へ行って左翼運動に関わったこま子が、昭和十二年に行倒れとなって養育院に収容された際も、当時大家となっていた藤村を非難の声が襲った。橋本治も『失われた近代を求めて』で、愛してもいない姪をセックスの犠牲にした「エゴイスト」と藤村を呼んでいる。その姪が、かえって男として自分を恋い慕い、フランスへ熱烈な手紙をよこしたとしても、藤村としてはただ恐れるしかなかった、ということまでは分かる。だが、いま引いたような会話は、実際に行われた会話であろうし、藤村は本当に鈍感だったのではないか、と思わせてしまう。姪から恋されたなどということは忌まわしいから書けないので、気づかないふりをした、では済まないものがあるのである。

 そのうち、藤村とこま子の肉体関係は、藤村の仕事場である二階で復活してしまった。長兄の広助らは一家で根津宮永町へ転居し、こま子はたびたび手伝いと称して藤村のもとへ通うようになる。

 だがそれから二年後の大正七年、『新生』が連載され、これを見た広助が怒って藤村と義絶し、こま子を台湾へやってしまう。大正八年、四十七歳になる藤村は、四月から十月まで、『新生・後編』を「東京朝日新聞」に連載するが、その間の五月に、長兄・秀雄が仕事で台湾に行き、異国での流謫生活に疲れ切ったこま子を連れ帰っている。こま子は姉の西丸いさの世話で、羽仁もと子の家に家政婦として住み込んだ。

 しかしこの、藤村の鈍感さは何であろうか。人は藤村を批判して、姪を愛してもいないのに関係した不徳義漢だから、それをごまかそうとしたのだ、という風にとらえるだろう。あるいは、友人の田山花袋が死んだ時、藤村が来て、「死ぬのはどんな気持ちかね」と訊いたというのが、藤村の冷淡さを表しているとも言われる。

 だが、こま子に対する鈍感さは、尋常の範囲ではない。藤村が『新生』を書く際に何か操作をしたと考えても、辻褄のあう説明ができないのである。つまり、藤村は本当に飛びぬけて鈍感であったと考えるほかなく、それはやはり一種の精神疾患だったろう。藤村の一族には精神疾患があり、島崎敏樹西丸四方のように、年少の一族で精神病理学者になる者もあったが、藤村のこれは、共感能力の欠如で、サイコパスに相当するだろう。日本近代文学の古典的長編私小説として読まれてきた作品が、批判もあったにせよ、このような重大な問題を抱えているということは、ちょっと驚きである。

 ネットゲームでアニメにもなった「文豪とアルケミスト」では、藤村は実像とはほど遠い情緒障害の人物のような姿をしているが、それはやはり人が無意識に藤村のこうした欠陥に気づいたからであろうか。

小谷野敦