與那覇潤の『中国化する日本』は、最初のつかみのところで、2011年のことをさして、
思い出してください。誰しも記憶を辿れば、この期間によい方向にであれ悪い方向にであれ、「歴史が変わった」と感じられる瞬間が、何度もあったことを覚えているはずです。
とある。もうここでついていけなくなるのだが、たとえここを乗り越えても、違うと思ったり意味不明な記述が次々と出てきて、読解不能なのである。なんでここで「誰しも」になるのか。
ヨコタ村上も最初の本『性のプロトコル』の冒頭で、昭和四十年代に子供時代を送った人なら、誰でも『あしたのジョー』の次の場面を覚えているはずだ、と書いていて、私は、知らない、と言って批判したのだが、どうもこれは一種の病気ではないか。
私なら、まあ信長が本能寺で明智光秀に討たれたことはみな知っているだろう、くらいは書くが、こういう珍妙な「誰しも」は書かない。何かこれは、内面に不安を抱えている人の書く文章ではないかという気がする。