原武史の『滝山コミューン』は、刊行当時評判がよく、講談社ノンフィクション賞も受賞し、原としては三つ目の賞になった。呉智英さんも褒めていた。ただ書評などを見ても、私には興味が湧かなかった。このたび古本を購入して目を通し、やっぱり自分とは無縁だなと思いつつ、その「世界」のあまりの違いに愕然とした。
愕然としたのは、原が私と同い年で、その小学校時代のことを描いているのに、全然共感したり同時代性を感じたりすることがないからである。
「滝山コミューン」とは、原が住んでいた東久留米市の団地と、そこの第七小学校の呼び名で、政治の季節が終わった後も、なお日教組のような左翼組織に属するような教師たちの、学校運営と、それへの原の違和感が中心となっているが、妙に細かな事項も書いてあり、しかしそれもまた私の感じていたものとは違う。
原は東久留米を「郊外」と位置付けているが、私が卒業したのは越谷市立出羽小学校で、都心からの距離はほぼ等しい。だが、原の体験談は、まさに東京ならでは、というものを感じさせた。せいぜい、私の場合、四年生の時の担任が日教組で、反天皇教育をしたから、私が反天皇になったというくらいで、原が描くようなことは、何もなかったからである。それはあたかも、幕末維新のころ、一般庶民は何も知らずに、何かが起きているなあと思っていたのだろう、というのとパラレルである。
原はかなりの優等生だったようで、当時の日記や作文も小学生ばなれしているし、四谷大塚のような学習塾へ通って中学受験をし、慶應普通部(中学)へ行っている。もっとも、そういう塾へ行く子は七小でも少数派だったとある。原の父親は理系の学者らしい。
原が、娯楽として楽しんだものとして挙げているのは、NHKの少年ドラマシリーズや、江戸川乱歩だが、私は少年ドラマは観ていたが、三、四年生の時は「帰ってきたウルトラマン」「ウルトラマンA」などの特撮ものに夢中で、五年生になって「新八犬伝」にとりつかれるのだ。
しかも、同級生の中に、のち女子学院へ行った誰それとか、演奏家になった誰それとか、仮名ながら登場するのだが、私の小中学校の同級生で、そんな形で名を挙げられるのは、おそらく一人か二人しかいない。中学受験などということもまったく話題にならなかった。
さらに、小学六年生の時に、教師が「織田信長について何か知っているか」と問い、原が、ひととおりのことを言うと、そんなことは本に書いてある、と否定し、別の生徒が、「僕は、そんな信長を殺した明智光秀を憎いと思います」と言ったら、教師に絶賛された、という話がある。
ここで原は、社会科は六年生になると歴史だが、まだ織豊時代までは行っていなかった。しかし塾でやっていたから知っていた、と書いている。だが、その前年の大河ドラマは「国盗り物語」なのだから、秀才なら観ていてもおかしくないし、私だってちらちら見てはいた。
それで思い出したのだが、中二の時、歴史の時間に、ちょうど安土桃山時代へさしかかり、教師が前回の続きをやろうとして、「えー安土桃山時代、別名は」と言ったのへ私が「織豊時代」と言ったら「そうだね。でもこれはまだ教えてなかったね」と言い、少し笑いが起きた。そのあと教師は、織田信長について、何か知っていることは、と訊いて、私が、出陣の前に銭を投げて、表が出たら勝利であると言って投げたらすべて表だったが、それは銭を表向きに張り付けてあったのだ、という話をした。するとほかの生徒が、えっ、そんな(高度な)話をするの? と驚いて、教師が、いやいや、もっと普通のことでいいんだよ、と言ったことで、私は信長の事績概略などというのを今さら言うとは思っていなかった、ということがあった。
第一、小学校時代は「いじめ」に苦しんだりしたものだが、原にはそういう悩みはまるでないようである。
これで、いかに「世代論」というのが無意味であるか、ということが分かるであろう。私もいずれ、小学校時代の、地方の貧しい生徒の生活を書かねばならないと思った。