それは八十年ぶりとも言われる猛暑の最中だった、といった小説の書き出しがあったような気がするが、実際それはそういう夏で、七月半ばに梅雨が明けると、蒸し暑いと言われる日本の夏にしては珍しい、かっと照り付けて、半袖で外へ出ると火傷しそうな、ちょうどサハラ砂漠では肌を露出してはいけないと言われるような、そんな天気が数日続いた夏だった。
その頃私は仕事が少なく、もう少しひどくなったらこれは失業者だ、という状態で、別にそういう時に限ったことではないが、一日に三回以上は郵便受けを見に行く状態だった。近ごろは、郵便だけではなくて宅配メール便などもあるから、なかなかそうした、自室から郵便受けまでの小さな旅にも、収穫物が多いのであった。
その日は、大学院の出身研究室からの、大きめで薄い封書が来ていたから、あっ、名簿だな、と思い、他の郵便物は小脇に抱えて、その封筒の端をびりびりと破きながら、自室へ戻った。
その名簿は、もう五十年以上の歴史を持つ研究室の、元院生、研究生、元教官などの名簿で、恐らく載っている人には送られているのだろうが、私ほどにこの名簿を毎年「愛読」している者はいまいと思われた。毎年作られるわけだから、重要なのは前年とは変わった箇所で、しかしもちろん、載っている人のうち、知っているのは一握りでしかないものの、毎年毎年眺めては研究していたから、古い人は名前だけのなじみになっている。
私は概して名簿好きで、名簿にはさまざまな人生の断片が覗けているからでもある。特に、就職、転職、結婚などが分かるから、今年はどういう「異動」があったかを楽しみにするわけだ。しかし、私が研究室名簿にこだわるのは、院生時代からあとしばらく、自分はいずれここ、つまり母校の教員になるのだ、つまりいずれはT大教授になるのだという非望を抱いていたせいであるのは否定できない。さて、考えてみると、その希望がなくなったのはいつであろうか。二〇〇一年に英語の非常勤をT大で始めた時には、まだその気は十分あったのか。〇三年には英語部会の新年度パーティーに出ているから、まだその気だったか。しかし母校どころか、私はどこかの大学へ就職すること自体できずにいた。だいたい、〇六年くらいには希望はかなり薄くなり、非常勤をクビになった〇九年において、完全に断ち切られたということになろうか。
土井虎賀寿という変人哲学者がいて、相模女子大の教授だったが学習院の非常勤になったのをこの上ない名誉と思い、「学習院の土井です」と名乗り、学習院の非常勤講師控室を自分の研究室のように占領してしまったりしたが、それでも相模女子大教授なのだから、何者でもない私などは土井以下ということになって、その私が、偏執狂のように研究室名簿の正誤を調べているというのも、鬼気迫るものがあって、なかなかいいではないか、と思うのであった。
この名簿は、大学院に入って初めて渡された時は手書きだったが、なかなか感動したもので、昭和三十四年以来の学生がずらりと並んでいた。もう翌年からはパソコンかワープロによるものに変わった記憶があるが、それが、研究生などが入ってきてだんだん人数が増え、間違いが多くなった。それで私は、つけつけと間違いを指摘したりしたものだが、一番多かったのは、物故者がかなり載っていたことで、これは今では不思議なほどに改善されている。逆に最近多いのが、もう大学を定年になっている人が依然として勤務していることになっているもので、住所については、間違っていても私には分からないから関係はない。
しかし、昔は、新しい名簿が来ると、お、この人がこの大学に就職したのか、と、知らなかった場合に気づくのが一つの楽しみだったのが、このところとみに、大学に就職する人が減り、一般企業や官庁、高校の先生などになる人が増えていた。
そういうのを順番にチェックしていき、ああこの人はもう定年になっているはずだ、などと確認し終えて、いったん名簿を抽斗へしまい、去年の名簿を取り出して別の場所へ移した。もう一度名簿を取り出して、何か新発見はないかと思って見ていて、ぎょっとした。
名簿は五十音順で、最後に、在籍した院生が、入学年順に並んだものがついている。物故者の名前には†(ダガー)がついている。初期の人には、物故者も多いが、一期生でまだまだ元気な名誉教授らがいる。二年ほど前には、トラブルがあって電話で話したことのある韓国人の五十代の女性が死んでいるのを発見したものだが、浮間真美さんの名前にその†がついているのを発見したのである。浮間さんは私の四つくらい上の先輩だが、割とよく話したことのあった人だったが、むろん、まだ五十になる少し前のはずだった。
実は私は、その二年前の暮れに、浮間さんと絶交していた。というのは、私はかねて、出身研究室は美人が多かったと書いていて、その頃またそういう関係の本を出していた。その当時、研究室の教授連が美人の院生に甘かったのは事実で、その部分は告発でもあった。逆に、そういうことは冗談として処理することも可能で、告発と冗談のあわいを行くようなところがあった。すると、その本を送った浮間さんからメールが来て、あそこの美人をかわいがるについてはいろいろ面白い話があります、とあり、藤井さん、私と対談しませんか、とあった。
浮間さんは美人であった。元は水原さんといったが、私が入学したころには、二十八歳でもう結婚して山口さんになっていた。結婚相手は官僚で、半ば見合いのようなものだったらしい。その頃、結婚した時に相手は一人暮らしで、アパートにはやかんすらなく、まったく炊事をしない人で、全部外食だったなどと話していた。そのあと、三十歳くらいで、私がカナダへ留学した年に、東北のほうの大学に赴任したが、どうするのだろうと思っていたら、新幹線で通勤していたらしかった。
いつもにこにこしている人で、研究室で出している学術雑誌の合評会で評者を務めても、あまりに手ばなしで対象となった論文を絶賛するので、評されたほうが恐縮してしまうほどだった。しかし本人が何を研究していたかというと、これが心もとなく、フランス文学だったり、三島由紀夫や泉鏡花だったりして、いわゆる耽美趣味があって、自身も大変な美文を書くことがあったが、学問として内容があるかどうかは怪しく、かつ、ご自身には評論家的に立ちたいという希望もあったようだが、この美文ぶりではとうてい現在通用すまいと思われた。
カナダから帰国して一年少したってから、研究室で出した論文集の刊行記念パーティーで久しぶりに会ったが、満面の笑顔なのは相変わらずながら、何かひどく疲れてやつれた顔だちになっていたのに、少々ぎょっとした。その感じは、皇后美智子の、あの若い頃のふくよかな顔だちが、永年の苦労で変形してしまったのさえ思わせた。
さて、その「対談」だが、私は既に三十冊近い本を出していたが、この浮間さんは、世間的には無名で、いきなり雑誌などに対談の話を持ち込むのは、主題が特に時事ものでもない限りありえなかったが、それから三カ月ほどして、「美人」に関する私の著書が出ることになり、それでは巻末に浮間さんとの対談を載せればいいのではないかと思いついて、連絡をした。二つ返事で了解があって、出版社の人に渋谷に部屋をとってもらい、対談に赴いたのが二〇〇八年の十二月一日、月曜日のことだった。勤務先大学のウェブサイトには、若い頃の写真が載っており、大分今とは違うだろうなと思ったが、担当の男性編集者に見せると、ああ美人ですねえ、と言っていた。
ルノワールのような大きな喫茶店には個室があって、その頃対談というのはだいたいそんなところで行われており、その日もそうだった。私が入って行くと、もう浮間さんは来ていて、担当編集者相手に盛んに何か話していた。ぱっと見て、老けたというより、激しく疲れ窶れた顔だな、と思った。女性が五十近くなって普通に老けるというのとは違ったものがあった。
浮間さんという姓になったのは、確か九六年頃だった。九五年に、当時阪大にいた私が、東京での研究会に出た時に、二年ぶりくらいに会ったのだが、その時は、作り笑顔のような顔をしていなかったためか、特に疲れたという印象はなく、夫について「もう愛想を尽かしてるから」などと言って、むしろさばさばした様子さえあり、ある先輩の著作について、あれはネタがダメだからダメ、と珍しく否定的なことも言っていて、後から考えたら、この時の浮間さんが、いちばんまともな感じがした。
ところがその翌年か二年後か、研究室名簿を見たら、「浮間真美」となっていて、それはどう見てもあの真美さんなので、人に訊いたら、どうも再婚したようですよ、と言うのだ。それから後で年賀状が来たので見てみると、かなり年配の男性と、子供を抱いた真美さんの写真があった。その後、メールで話したのかと思うが、相手は五十歳くらいの再婚の内科医で、医者の家族になると病気の時に有利だから、と合理主義的なことを言っていた。
もっとも、女性学者の場合は、結婚しても外での姓は変えずにいる人が多い中、真美さんはそのたびに変えていて、二度目の時は、むしろ変えなくてもいいのにと思ったが、いつからか、大学も東京勤務に変わっていて、国立の場合はその当時は通称の使用は認めなかったり難しかったが、真美さんの場合は私立で、その制約があったのかというに、そうでもなかったようだ。著書も、山口真美の時に薄いパンフレット状のものを一冊出しただけだった。
十年くらい前から、私はたくさん本を出すようになるのだが、そのたびに知り合いには送っていて、あまりに音沙汰がないとリストから外すようにしていたが、真美さんからは毎度お礼のメールが来たので、毎回送っていた。そのたびに、割と楽しいメールのやりとりがあったが、冬になるとうつ病の発作がひどくて返事ができない、と言っていた。どうやら新幹線通勤の間に持病になってしまったらしかった。
その浮間さんにお世話になったのは、〇六年の十一月に、母ががんの宣告を受けた時のことで、私は直接電話をして、相談に乗ってもらった。結局、母はそれから一年しか生きられなかったが、私は激しい動揺をしているなかで、医師夫人である浮間さんと話したことで、ある落ち着きを取り戻すことができて、感謝していたが、浮間さんのほうでは、結局力になれなかった、と思っているようだった。
対談が行われたのは、母の死去からちょうど一年後のことだったのは、不思議な因縁であったかもしれない。
浮間さんがトイレにでも立ったのか、いない隙に、編集者は、ちょっと変な顔で、
「なんか盛んに売り込んでましたよ」
と言った。浮間さんと同じ頃大学院にいた人たちは、私を含めて、いくつも著作を出している人が多かった。浮間さんもそうしたかったらしいことが、言葉の端から窺えたが、二十年近く前に出したパンフレット状のもの一冊では、業績ありとは認められないから、一冊分原稿を書いて売りこまなければダメなのである。しかし、訊かれてもいないのに教える必要もなかったし、あの美文趣味が抜けない以上は、浮間さんが書き手として認められるのは難しいだろうと思った。
対談は、四方山話から始まったが、浮間さんの話し方には特徴があって、非常に顔の表情を激しく動かす。それが、以前より甚だしくなり、私が何か話すと、満面の笑みとも、何か一種の自己防衛的なこわばりとも見える表情で、一瞬の間を置いて、ぺらぺらっと話す。この一瞬の間は昔もあったが、昔より間が長くなっていると思った。実際は、かなり話しづらい感じがしていた。
数年前から、浮間さんは、自分は中村うさぎだ、と言うようになっていた。中村うさぎは作家で、浮間さんは確かにうさぎさんに顔だちが似ていて、うさぎさんもむしろ美人顔なのだが、自分はブスだという認識を持っていて、整形をしたり、果ては風俗嬢として働いたりして話題を振りまいており、浮間さんも、私は若い頃もてなかった、と言っていた。美人なのにと思ったが、どこか、性格的に恋愛下手なところがあるのだろう。
私はふと、出身研究室は右翼的と言われていたが、そういうことはどう思っているのか、と訊いてみた。彼女は、むしろ左翼的な傾向に対して違和感を感じていたと言い、私もそれはそうだったが、
「でも、あの天皇崇拝は、どうですか」
と訊くと、
「ああ、それはあたしもダメ」
と言った。
さて、いよいよ、私たちの研究室では、美人は優遇されていたかという話になったが、突然浮間さんは、身ぶりが大きくなり、笑顔のまま、きょときょとしつつ、
「藤井さん、どうして私を対談相手に選んだんですか?」
と言った。私は、浮間さんから申し出たように思っていたのは私の勘違いかもしれない、と思って、いや、あそこの美人については、話したいことがある、と言うので…‥と口を濁した。浮間さんは、ディズニーのキャラクターのように、大ぶりな目と顔をくるくるっとさせて、「藤井さんの説については……」と言ったかと思うと、胸の前で両腕を交差させて、「バツ」と言い、
「そういうことはなくて…‥みなさん、まじめにがんばっていると思いますよ」
と言った。私はさすがに驚いたが、むしろ、何か私が勘違いしていたのか、と思ったくらいだった。編集者も、話が違うので、笑みを浮かべつつではあったが、私に、
「え……と、いいんですか」
と訊いた。私も、いや、いいでしょう、そういう話なら…‥と曖昧に答えて、曖昧なままに対談は終った。外へ出ると、浮間さんは、じゃあ、と言ってそそくさと行ってしまった。
不断は、昼寝をする時間だったので、私は疲れて家へ帰ってきて、早速、真美さんの数ヶ月前のメールをチェックした。すると、私が思っていた以上にはっきりと、「美人については面白い話があり」「対談しませんか」とあった。私は、ほとんど詐欺だなと思い、あの対談は没にするしかないが、場所と時間をとらせた以上は、損害賠償ものだと思って、その以前のメールの抜粋とともに浮間さんにメールを送り、「あの対談は没にします。自分がしたことが分かっていますか」と書いた。ほどなく「了解しました」という返事が来た。
いったい、何を恐れているのか、と私は思った。たとえば、まだ就職していない院生とか、地方の大学にいて、中央へ帰りたいと思っている人が、学閥に逆らえないとかいうなら分かるが、浮間さんはもう東京の教授で、恐らく定年までいるのだ。よしんば、誰かに相談して、そんな話はしないほうがいい、と言われたなら、断るのが大人のすべきことだろう。こうして、私と浮間さんは絶交したのである。
翌年二月に、私たちの教授であった室田名誉教授の出版記念会が開かれ、私も招かれたが行かなかった。後になって、これに出席した俳人の春岩弓瑞が、その日の着席を書いた紙をブログにアップしていたので、浮間さんも出席していたことを知った。ほかに、出席した友人からは、明るく話していたように聞いた気もする。私はほどなく、名前は伏せて、こんな目に遭った、ということをブログに書いた。
それから一年後の、死去の報せで、ほどなく、四月初めに死んだと聞いた。