喜多迅鷹の謎

 前に触れた東大卒業予定者名簿というのは、延々留年している人は毎年載っていて、私の時のには、宮城聡がまだ載っていた。ところで独文科に喜多迅鷹という人の名があり、それが出身校が浦和一女になっている。その後、喜多迅鷹という名は翻訳家として、夫人らしい喜多元子という名と並んでたびたび見かけたが、読み方すら分からず、頭の隅にひっかかっていた。ところが先ごろ調べたら、「きた・としたか」と読み1926年生、旧制浦和中学校から一高をへて東大を出て大学講師をしていたが大学紛争の時に画業に転じたという。
 だとすると私の卒業のころにはもう60になっていたはずで、東大へ入りなおしていたのだろうか。それにしても浦和一女というのが不思議で、もしかして旧制浦和中学校が何か制度的に浦和一女に引き継がれたことになっていて、それでそうなっているのか…。