恋愛史論の「ドーダ」

 13日記す。『週刊文春』の見開き自由書評欄で池澤夏樹渡辺京二の『江戸という幻景』をとりあげていた。2004年弦書房刊である。そしてその一節を引用しているのだが、近世の人間は恋愛において、オンリーユー、フォーエヴァーということはなく、あれからこれへとふらふら移動したといったことを、なかなかの美文で書いていて、もちろん池澤は感心している。
 しかしもちろんこれは「一知半解」の最たるもので、「この人と未来永劫いつまでも」というのは、幻想であるとしたら現在でも幻想であり、近世の人間が少しもそういうことを考えなかったのだとしたら、清姫安珍を追っかけたりはしないし、濱路は犬塚信乃にふられて首を吊ろうとはしないし、阿倍保名は榊の前が死んで気が狂ったりはしないのである。
 近代において、人々は、美男美女の特権である恋愛というものが、誰にでも出来るものだと勘違いするようになる。ただし、日本ではそれは昭和30年代に確立した錯覚である。もとからそうなのかどうか知らないが渡辺京二は左翼出身ながら、少なくとも90年代以降は、階層差というものを忘却していって今日にいたる。しかし、佐伯さんもやったこの「前近代の『恋愛』は近代のそれとは違うゾ!」というのは、鹿島茂言うところの「ドーダ」みたいな感じがする。

                                                                  • -

明日はAN賞選考ということでふと思い出したのだが、前のA賞候補の時新聞社の並び取材をやって、私は喫煙姿の写真でなければ撮らせないと言ってそうした。で今回産経新聞は書評の写真にそれを使ってくれた。しかしクソ朝日は『日本売春史』の唐沢俊一による変な書評以来四年、私の本の書評をするつもりはないらしく、むかむかしていたら、あの時のことを思い出して、K記者というのは前から知っていて、六年くらい前には「タバコ問題をやりましょう」などと言っていたのが、「転向」してしまったようで、ひとしきり質疑応答が終わった後で、
 「小谷野さんはもし煙草を吸っていなかったら反禁煙運動をやっていましたか」
 と訊いた。私は、ははーんあんたらは、自分では喫わない斎藤貴男になら、禁煙ファシズム批判を紙上でやらせるんだねと逆襲した。
 思えば、「あなたはもし広島で被爆していなかったら反核運動をやっていましたか」というくらいの質の質問であろう。 
 ま、その記者が誰であったかは、忘れたことにしておこう。
小谷野敦