健康法の不快

 雑誌記事であれネット上であれ、「健康法」の記事を見るたび不快になる。何も禁煙を勧めているからではなくて、
「そんなことをする暇とカネがどこにあるというのだ?」
 と思うからである。カネのことは措くとして、少なくとも暇な人間にしかできないようなことしか、そういう記事には書いていないからである。
 まあ私のことは措くとして、世の中には朝から晩まで働いて精一杯に生きている人が大勢いるのだが、この手の健康記事というのは、絶対にそういう人を念頭に置いて書かれてはいないのである。有閑マダムか地主のおじさん向けのものとしか思えないのである。
 丸元淑生のシステム料理学のように、カネがなくても健康にいい食事などと言いつつ、鰹節を築地で買えなどとあって、日本人が全員東京に住んでいるとでも思っているのか! てな本であった。
 要するにそれは「カネと暇のある奴向けの健康法」でしかないのだが、その分際をわきまえずに、何も健康法をやらないあなたは愚かですよなどと脅迫するからさらにタチが悪い。貧民たちは声をあげてこうしたブルジョワ向け健康法の記事とか健康本を糾弾すべきなのである。

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サンデー毎日』を見たら角田光代が『分別と多感』を書評していて「初ジェーン・オースティン」と書いていたので衝撃を受けた。角田光代ジェイン・オースティンを読んだことがないのだ。オースティンを読まなくても、女性を描く女性作家を二十年やってこられるのだ。文学研究の黄昏をまたしても感じる。
 『週刊朝日青木るえか佐藤優評「衣の下に鎧をのぞかせ、しかしその下に衣をのぞかせるがさらにその下に鎧」というのは言いえて妙。
 新刊随筆集でまたしても私をあてこすっている平川先生は「自分は国際派でナショナリストではない」と言い募っている。平川先生と私のやりとりは「でも天皇崇拝家でしょう」「国際派であってナショナリストではない」「でも天皇崇拝家でしょう、ロイヤリストでしょう」「国際派であってナショナリストではない」の無限ループになっている。そりゃ平川先生にとっては「ネーション(国民)」なんかどうでもいいんだからナショナリストじゃないですよ。