某教授が一年間サバティカルをとるというので、その代理で一年間、専修大学で非常勤をさせていただいた。地下鉄神保町の駅には「専修大学前」などと書いてあるが、あれは法学部だけで、今はだいたい生田、つまり向ヶ丘遊園駅から、学バスで行くのである。阪大を辞めようとした時に、英語教員の公募に出して面接に呼ばれ、大阪からやってきて、その時は生田駅から歩いて行ったがえらい坂道だった。
午後から、学部一コマ、大学院二コマだったから、けっこう終る頃には疲れていたが、国文科だから女子の比率がすごく高かった。もっとも学部では私が講義をするというより学生の発表がほとんどだったが、前期にはホラー映画とかマンガの話が多かったので、ちょっと不安になったが、後期はみな近世文化についてちゃんと発表をした。途中で、枡野浩一さんが専修大の出身であることに気づいたので、院生たちには枡野さんの本を読むよう勧めておいた。本来なら専大出身者の星なのに・・・。
私は、東大ではよく学生をどなりつけたりするが、それは東大だからであって、専修大ではそんなことはしない。国文学というのは、英語や数学ができないけれど、という人がいるので、必ずしもトップクラスの大学でなくても、優れた学生がいることがある。ここでは、博士論文を本にした女子が二人もいて、がんばっている。
それにしても、あの山あり谷ありみたいな地形に、複雑に建物が建っているのには面食らった。何しろ八階まであがっていって、屋上からとことこ歩くと、何やら地上へ出るのだから。
もっとも驚いたのは、最後の授業の時になって、女子学生にけっこう美人がいることに気づいたことで、それまでは学生を見る目で見ていたから気づかなかったのだ。
最後は、院生たちを連れて吉原見学に行ってきた。しかしあれは何度行っても千束通りが斜めに走っているので迷ってしまう。
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なんかアマゾンが並べ替えができなくなっている。
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峰原緑子は1961年生まれ、18歳の1979年12月『文學界』に「夏のさなかに」が載り、80年12月「ゆらり、と」で文學界新人賞佳作で掲載、81年6月「風のけはい」で受賞、芥川賞候補になり、7月にはこの三作を収めた単行本『風のけはい』を上梓、口絵にはやや美人の本人写真あり、帯には「19歳の、まぶしい登場」「オートバイの深夜の暴走、まだ生れこぬ妹への嫉妬、中年男とのゆきずりのセックス、つかのまの家出、セーラー服の下の倦怠、…」「少女達の いまを 落ちこぼれ感覚でつづった映像世代の新しい文学の出現!」とある。当時、立正大学第二文学部国文科在学中とある。
だが、その後たちまち姿を消し、二冊目は出ていないし、果して小説をその後も書いたのか、大学を卒業したのかどうかも分からない。いま47歳になるはずだが、どうしているのやら。佐藤亜有子も昨年久しぶりに単行本を出した。ここまですっぱり消えた作家も珍しい。