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http://d.hatena.ne.jp/asakura3/20090312/
また朝倉くんであるが、別に意図してからんでいるわけじゃなくて、はてなダイアリーも数年たつから、あまり初心者めいた議論は淘汰されているので、目立つのだよね。いや私も笙野頼子が猛り狂った理由はだんだん分かってきて、やはり小説を自分で書いてみると違うものだなと思っている。だから田中和生も自分で書くといい。
さてしかし、ベストセラーはみなクズというのは言いすぎで、『風と共に去りぬ』はクズではないし、司馬遼太郎や城山三郎や松本清張がクズということもあるまい。漱石は新聞社から給料を貰っていたわけで、当時売れたのは菊池幽芳、渡辺霞亭あたりか。しかしそれより売れたのが倉田百三や賀川豊彦で、それは宗教書だから。今だって毎年、ベストセラー一位は『人間革命』なのだが、毎年同じじゃしょうがないからベストセラー・リストからは除かれているだけ。近ごろ近所の書店へ行くと、ベストセラー案内の放送が流れていて、なんかくり返し「じゃめじゃめ著」とか言っていて、何かと思ったら血液型の本らしい。
大塚や永江は論外として、いわゆる「純文学」なんてものは出版社が赤字覚悟で、作家のパトロンになって出しているわけ。金井美恵子先生は生活も大変そうだけれど、文庫化率は、黒井千次や高井有一、古井由吉よりいいくらいではないか。そこで、売れないけれどいい小説というのを誰が認定するのかという問題になるわけで、それはまあ一般には批評家なのだが、批評家は出版者ではないから、結局は編集者や出版社の「英断」ということになる。
私も若い頃は、大学出版局とか、んーたとえば明治書院みたいなところは採算を度外視して本を出すものだと勘違いしていたのだが、実はそうでもない。谷沢永一が最初の本を出した時、小田切秀雄が奔走して塙書房から出ることになり、小田切が、大きな出版社から出せなくてすまんと謝ったという話が谷沢の『運を引き寄せる十の心得』に書いてあるのだが、これを読んで驚いたというのは、今だったら、塙書房は国文学では立派な出版社だし(『万葉集』など塙書房のものが国文学者の使うもの)、新人の研究書なんて出ただけで御の字で、そんなことで謝る人はいないだろうからである。だって博士論文でさえ刊行できないのが現状なんだよ。
民営化するといっても出版社は基本的に民営だが、これが経済原理を導入したら、純文学の小説など大江と両村上くらいしか出なくなるわけで、ほかはみな赤字なのである。
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『美人作家は二度死ぬ』にアマゾンレビューがついた。星二つ。もちろん、プロの編集者から駄目と言われたものだから、否定的な意見があってもよい。ただこの「料理研究家」と名乗る人、村山由佳の『ダブル・ファンタジー』と並べて買ったといい、純文学と大衆文学の区別もついていないようで、ほかのレビューを見ても、文学には疎い人らしく、どういう小説をよしとしているのか分からない。橋本治の評論が好きなようだが、橋本治って、小説家として認められないことを嘆いていたんだがなあ…。というようなコメントをつけたら、レビューがあとから付加されていた。するとこの前に出た私小説は読んでいないが、今では「プライベートのこと」を書いても私小説とは言わないようですよ、というのだが、それ、誰の説でしょうか。まさか、2ちゃんねるでそう言っている人がいたとかいうんじゃないでしょうね。自分のことを書いたら私小説です。さらにまた、読んでもいないのに、道化を演じるとか言ってわけが分からない。批判するにしてももうちょっとちゃんとした人にやってほしいなあ。
(付記)純文学と大衆文学の境界が曖昧になっているというのは、どちらともつかない曖昧なものもあるという意味で、実際には、内向の世代のように、どう見たって純文学というものもあれば、西村京太郎や山田正紀のように、どう見たって大衆文学というものは、歴然として存在する。実際、高井や黒井、坂上弘といった、藝術院会員の小説が、文庫にもならずに絶版になっていっていることを知らない人は存外多い。ああ、笙野頼子の怒りがますます分かってきた。むろん私は、自分の作が「純文学」だと言っているのではない。多くの読者を得なければ駄目だみたいな言い方に反論しているのだ。(どこのどなた様が知らんが、純文学と大衆文学などと言うのは時代錯誤だとか、新聞記者レベルの無知をさらけ出して、誰に向かってものを言っているつもりなのだろう。そんな区別は、井伏鱒二や梅崎春生が直木賞をとったり、辻邦生や井上靖が純文学扱いされていた当時から曖昧だったのだよ)
一消費者だから見逃せなどというのは、インターネット以後においてはもう通用しない。全世界に向けてそれは発信されているのだから、当然責任を伴う。新聞の投書欄でさえ匿名は原則として認めないのだ。一素人として扱ってほしいなら書き込まないこと。
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水原紫苑さんから新刊『歌舞伎ゆめがたり』を送っていただいた。お礼状を書きたいが住所が分かるかしら。そういえば昔水原さんの歌集をどこかで取り上げたっけ。水原さんが描く歌右衛門は、確かに歌右衛門で、いやそれはお礼状に書こう。水原さんはたくさん小説を発表しているのだが、単行本にならない。その辺、不遇のアマチュア作家として共感を覚えてしまう。
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