童貞が、女体とかセックスというものに過大な幻想を抱いているということはよく言われる。むろん、その期待がたちまち裏切られる、というものではないが、やがて幻想は減退していく。
これとよく似ているのが、定職のない大学院修了者が、「専任」に対して抱く幻想である。これもまた、私のようにいきなり恫喝される場合を除けば、当初はある程度満たされる。そして、他の教員たちはみないい人で、などと言うのが普通であるが、たいてい、一年間は試用期間のようなもので、よく事情が分からないだけである。それが、二年、三年とたつうちに、雑用、会議、委員会などの仕事が押し付けられてくるのは言うまでもなく、いい人だと信じていた同僚が悪人であることが分かったりして、いったんこじれるととんでもなく面倒な世界に変わるのである。
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前に書いたことの補強だが、丸谷才一の小説では、男が女に何か知的なことを教え、女が、へえそうだったの、という場面が多い。ところが、その女が、『女ざかり』では新聞記者、『輝く日の宮』では学者であるため、いやに無知な女だなあ、と思う。『女ざかり』ならポトラッチ、『輝く日の宮』ならアナール学派、といった具合である。むろん、ポトラッチを知らない新聞記者や、アナールが人の名前ではないことを知らない学者は存在するが、「本当らしさ」がそこで失われてしまうのである。これは丸谷が、それらの女を、水商売の女をモデルにして描いているからだと思う。
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香山リカの新刊の題名を見てのけぞった。『私は若者が嫌いだ!』(ベスト新書)って・・・。後藤和智君に批判されてとうとうぶち切れたのか・・・。いやいや、題名だけで何か言ってはいけないね。いけないよ、君たちも。
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先日、自転車に乗った50台くらいのおじさんと喧嘩をした。といっても、一方的に言われただけである。おじさんが割とゆっくり前を走っていたので、追い越したところ、追突されたのである。おじさんは「おいっ」と言い、私も自転車を降りた。「なんで前へ入るんだよ!」「いや、追い越しただけで」「それならもっと前へ行ってから入れよ。すぐ入るからぶつかるんだ」とか何とか。私は頭の中で、追い越されていて減速しない方も悪いんじゃないかなあ、いや私が悪いのか、どっちだろう、とか、そもそも私はこんなおじさんと喧嘩している場合じゃないのだなあ、大事の前の小事、とか考えていた。おじさんは言うだけ言って「タコ!」と言うと行ってしまった。
いったいいつから関東人の罵り言葉は「タコ」になったのだろう、などと考えながら、私は家路についた。自分の外見が怖くないということを確認した。