死の恐怖

 「死の恐怖」を語る人は多い。宮崎哲弥氏は少年時代、眠ったらそのまま死んでしまうのではないかという恐怖から一週間眠れず、病院に担ぎ込まれたという。ただ宮崎氏は、『中論』を読んでその恐怖を乗り越えたかのように語るが、理屈で越えられるものかどうか、依然として私は疑問だ。
 しかし一般に、子供の頃であれば、「自分がいつか死ぬ」ということに恐怖を覚えることもあろうが、大人になって、仮に90歳まで生きられると保証されて、なお恐れる人がどの程度いるであろうか。むろん、90歳まで生きても怖いものは怖いかもしれないが、多くの大人が語る「死の恐怖」というのは、たとえばあと一年で死ぬとかいう「若死にの恐怖」なのではないだろうか。
 平安時代から、80まで生きる人というのはいたけれど、昭和30年代以前なら、60歳まで生きたら、まあよしという意識が多かったのではないかと思うし「人生50年」はともかく、60年くらいの計算で社会ができていたはずだ。しかるに現在では、60くらいでは、まだ若いと言われてしまう。社会の中核は50代、60代とはいえ、ところによってはそれでも「洟垂れ小僧」で、70代にでもならなければ各種名誉がやってこない、80歳平均寿命の時代となって、かえって「若死にの恐怖」は強まっているのである。
 従来の「死の恐怖」論は、多く、絶対的なものとしての死の恐怖について語ってきたが、実は長寿社会である現代先進国における、相対的な「若死にの恐怖」すなわち、平均寿命まで生きられないことへの恐怖として蔓延しつつある、という観点から、考え直さなければならないのではあるまいか。