呉智英対木越治

 古い話で恐縮だが、呉智英さんは『大衆食堂の人々』で「シラカバ派の知識人」という文章を書いている。その筋では有名なもので、シラカバ派の定義についても諸説ある。
 その中に、石川淳に関する文章があって、上田秋成春雨物語』の「樊噲」に関するものだ。これは中国地方(もちろんシナのことではない)にいた暴れ者を描いた物語だが、戦前、その前半部(上)しか発見されておらず、石川淳はこれを賞賛していた。ところがその後、昭和初年に後半(下)が見つかり、そこでは樊噲は最後に改心して仏道に入ることになっている。呉さんは、石川の小説にこの種の乱暴者が出てくることを指摘して、「そうか、石川淳もシラカバ派なのか」と締めくくっている。
 呉智英ファンなら誰もが記憶している文章だが、実は近世文学者・金沢大学教授の木越治が、『秋成論』(ぺりかん社、1995)でこれに反論していることを最近知った(私のことを近世文学専門だと思っている人がいるかもしれないが、そうではないし、私は実は秋成にあまり興味がない)。木越は、石川は「下」が発見されてからも、上だけを評価し続けた、呉は石川を「強い思い込みから来る勇み足」としているが、勇み足は呉のほうのようだ、と書いている。
 さて、呉さんがこれを知っているのかどうか、分からないし、これへの反論文は見たことがない。ただ、木越はどうやら、呉さんの文章を誤読しているらしい。呉さんは、石川の「乱暴者」に「ロマン」を見てしまう性質を「シラカバ派」と言っているのだから、その後も上のみを評価し続けたことは、呉さんの議論を裏付けるだけなのだ。木越は呉さんが、石川が、続きがあることを知らずに議論したことのみを批判しているのだと思っているらしいが、そうではない。しかし「乱暴者幻想」がなぜ批判されなければならないのか分からないと、議論にはならないだろうなあ。

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ところで、今度出した『リアリズムの擁護』で、新曜社から出した本は五冊目になるのだが、新曜社はいわば私の「本丸」で、よそでは出してくれないような、しかし出したい本を出してくれる。ただあまり部数が出ないのと高いのとで、若者などはあまり読まないらしく、私に関する誤解とか知識不足とかは、しばしば、新曜社の本を読まないところから出来する。最初の『男であることの困難』は割りに売れている方だが、これは最初のほうだから、まだそういう類のものではない。世の中は何も新書だけでできているわけではないのだよ。
 (小谷野敦