紅野敏郎は偉いか?

 武藤さんの『文学鶴亀』の冒頭に「紅野敏郎の直言」という文章がある。これは初出の1993年に読んだ。これではないのだが、武藤さんは確か「紅野敏郎の書くものは、すべていいのだ」とどこかに書いていて(『マリ・クレール』だったか)、当時「ほお」と思ったものだ。恩師ででもあるのかと思ったが、紅野は早稲田、武藤は慶応である。ところが、2003年7月の『諸君!』の坪内祐三の文章(確か『同時代も歴史である』所収)で、平野謙の戦時中の戦争協力隠蔽と、それを指摘しない者らを批判しつつ「紅野敏郎がいいかげんな人であることが分かった」とか書いてあったので、おやおやと思った。坪内はもちろん早稲田だが英文科である。
 最近になって、私はようやく、紅野の書くものを読み始めた。紅野は、著書は少なくないが、主としてあまり人の知らない雑誌を調べる仕事が多く、『國文學』では谷沢永一の書物紹介とともに長く雑誌紹介を連載している。しかし、まとまった本というのがない。なくてもいいのだが、どうも谷沢の短文を読むときのような興奮は味わえない。
 それで再度、武藤が引いている紅野の文章を見て、実はぎょっとした。というのは、紅野は、芥川龍之介展に触れて、なぜ宇野浩二展、広津和郎展、豊島与志雄展、近松秋江展といったものがないのか、と憤っている、という。文学研究の環境が整備されていない、というので怒るのは分かるのだが、これがたとえば、「展」ではなくて「伝」であったら、どうか。「夏目漱石伝や芥川伝は多いが、なぜ里見紝伝はないのか、近松秋江伝は」とやったら「ならお前が書け」と言われるに決まっている。『評伝豊島与志雄』は、関口安義が書いた。「展」と言っている限り、責任は文学館とかそっちの方へ押し付けることができる。ではなぜ「里見紝研究」がないのか、と言えば、じゃあお前が纏めろといわれるだろう。
 おやおやと思ったのは、私は1993年頃、武藤康史坪内祐三を、似たような種類の人だと思っていたからで、当時そう思う人が多かったようだ。しかし紅野敏郎が偉いか偉くないかという点では、坪内が正しいと思う。私は関口安義のほうをずっと尊敬する。
 まあ『en-taxi』の匿名巻頭コラムで「ジュンジュン」とかいう名で書いているのは坪内か福田か知らぬが、実にどうもけしくりからぬと怒ったふり。