プルーストは両親が死ぬまで・・・

 柳美里石に泳ぐ魚」裁判関係の新聞記事を見ていたら、読売に、こうあった。「かのプルーストは、大作を執筆し始めるのに両親が死ぬまで待ったそうだ。時間の流れの速い現代はそうもいかないだろうが、小説家にとっては悩み多き時代になりつつあるようだ」。
 いや、「時間の流れの速い現代」じゃないだろう。「人がやたらと長生きする現代」では、とすべきだろう、ここは、と思った。そういう表現って、きっと新聞ではタブーなんだね。
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 先般来話題にしている掛谷氏『学者のウソ』に、中共によるチベットウイグルの弾圧を「マスコミ」は報道しない、と書いてあった。『諸君!』や『SAPIO』は「マスコミ」じゃないという定義かな? 新聞、テレビ、男性週刊誌程度がマスコミなのかな? だとすると、私はマスコミで言いたいことが言えるから、言えない私は匿名でいいのだ、とか言っていた奴は完全に間違っているな。私は新聞やテレビで言いたいことなんか言えないし。
 もう一つ、掛谷氏は「女性専用車両」について、高齢女性は痴漢に逢わないのだから「お嬢様専用車両」とすべきだろうと書いているが、これは冗談だろう。四十代でも痴漢にあう人はいるだろうし。

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 アマゾンのレビューは相手にしないことにしていたのだが、これは書いたのが武蔵大学教授・土屋武久という人らしいので、とりあげる。

「こういう仕事をしてはいけない, 2006/1/23
レビュアー: hamayoshi - レビューをすべて見る
この著者の本は「もてない男」「夏目漱石を江戸から読む」など刺激的で、この本も期待して読んだ。だが、結論を言うなら、評論家たるものこんな仕事をしてはいけない。
とにかく最大の欠陥は、この本が矛盾に満ちており、構成もガタガタだ、ということにつきる。
まえがき、第一章あたりはよい。特に小林秀雄に始まる情緒的で飛躍の多い評論をしりぞけ、アカデミズム八割の評論を書くよう勧めている点はよい。第二章の評論家とその著作を品定めしているあたりも、主観的ではあるが、面白い。第五章で赤裸々に自分の体験を語っているのも興味深く読めた。
しかし、第四章あたりから、おかしなことになってくる。柄谷行人の昔の評論をあれこれ荒さがしするのだが、本書でそれをすることの意図が不明。しかも、背景に不案内な読者には非常にわかりにくい内容だ。この章は不要化と思う。
そして最終章の「エッセイのすすめ」にくると、私は呆然。先行する章でごりごりの「評論」を論じてきたのは何のためだったのか?
このように本書は、構成に大きな問題をかかえており、とてもじっくり作られた本とは思えない。また、論述についていうなら、アリストテレスの論理学を勉強するよう勧めておきながら、私には飛躍だらけの文章と思える箇所(たとえば江藤淳の博士号取得の経緯を書いた194−195頁あたり)が少なくないのだ。さらに著者はあとで訂正しているようだが、早稲田の教授の年収を2千万とするなど、まともに調べた様子はなく、これがアカデミズム八割を提唱する人の文章かと驚いてしまった。
安直な企画と杜撰な思考と手抜きの執筆の産物。評論家は、こういう仕事をしてはいけない。

 どうも、全体としてそんなにひどいという印象を受けない。第一、柄谷行人の本を取り上げるのはこれが現代において代表的な文藝評論だと思われているからだし、「エッセイのすすめ」は、冒頭で、そんな評論家をやって論争などして神経を疲れさせるのは嫌だ、という人にはエッセイを勧めたい、と書いてあるではないか。それと、江藤淳に関する箇所がどうおかしいのか、土屋教授に返答を求めたい。まあ、あとで武蔵大学へ送っておくが。この人の同僚に高村忠明というシェイクスピア学者がいて、元東大駒場の教授だったのだが、ほとんど業績のない人で、私はゼミに出たことがあるがあまりにつまらないのでやめてしまった。当時の英語科では高村を教授に昇進させるにも業績がなさすぎてお荷物だった人である。

追記:その後、土屋に電話した。海外出張中だったり、居留守を使われたりしたが、ようやくつかまえたら「さあ、記憶にありません」「同姓同名じゃないですか」などと白ばっくれた。もし本当に自分じゃないなら「記憶にありません」とは言わないよ。