「明日の記憶」

 先日報告した村上春樹世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の翻訳だが、ドイツ語訳とフランス語訳も見てきた。問題の箇所はいずれもそのまま訳されていた。ドイツで春樹批判が出たのはそのせいかもしれない。その際、「英訳からの重訳が多いから誤解が」云々と言っていた者もいたが、そうでないことが分かった。まあフランス人は、あの程度では何とも思わないだろう。

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 さて、荻原浩原作の「明日の記憶」という映画をDVDで観たのだが、いやはや、とんだブルジョワ人情話であった。
 格差の拡大が憂慮され、結婚できない男女が問題化している21世紀はじめ、渡辺謙の主人公は豪邸に住み、恋愛結婚した美しい専業主婦の妻(樋口可南子)と、早々と結婚相手を見つける一人娘に恵まれた、49歳で渋谷にある大手広告会社の部長である。これがアルツハイマーとなる話。妻は自ら陶器販売の小洒落た仕事に就いて、献身的に夫を支える。せいぜい一度だけ、夫の過去の身勝手をなじるだけである。このような恵まれた境遇にないプロレタリアートが同じ病に犯されればどうなるか、ちと考えてから観賞してほしいものであると、アマゾンやミクシィの感激レヴューを見て思ったのであった(想像力ってのは、そういう時に使うもんだぜ、なんとなくリベラルなブルジョワどもよ)。最後は妻の顔さえ忘れてしまう一幕だが、結婚できない男女がこの病気にかかったら、一体誰の顔を忘れればいいのだろう。大学で文学を教えている方々には、ぜひ学生に毛沢東の「文藝講話」を熟読させてほしいものである。
 しかしとにかく前半の、広告会社とクライアントのやりとりのあたりは、不快だった。渋谷全体に同じイメージの広告が展開するさまは醜悪で、資本制の醜さを表そうとしているのが分かった。特にそのイメージが大便そっくりなのは、監督の意向でもあるのだろうが、それが十分に伝わっていたかどうかが、疑問である。

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後日、原作を読んでみた。といってもざっと見ただけである。やはり、映画のほうで失敗していることが分かった。まず、主人公の父親もアルツハイマーで死んだことが、映画では削られている。母親が生きていることも。また妻は働きになど出ておらず、その両親は既に死んでいる。主人公は三十代で横浜に家を建てたようだが、映画ではないので、特に立派な家という風には読めない。また娘の結婚式も、映画では豪勢に過ぎた。また介護施設についても、妻と相談の上で見に行くことになっており、ずっと自然である。時間的にも、五年後の姿などにはなっていない。
何より許しがたいのは、主人公が、タバコはアルツハイマーの予防になるという説を知り、それが少数意見でしかないと知りつつ喫煙を復活させるという筋立てをすっぱり切り捨てていることだ。この映画には多くの人間が出てくるが、喫煙のシーンは、主人公の幻覚の中で不良女子高生が吸っている以外にまったくない。息苦しさを覚えるのはそのせいもある。私が原作者なら、このようなシナリオは許さないだろう。