いじめっ子に「愛」はあるか

私は『恋愛の昭和史』以来、「愛」とかラヴとかいう言葉は、人類愛や博愛に限定して使われるべきで、男女の愛とか家族愛とか、排他的な感情には使うべきではなかった、この二つをごっちゃにした西洋人が間違っていた、と言い続けている。
これを「いじめっ子」に当てはめるとよく分かる。いじめっ子でも、母親を「愛」していたり、恋人を「愛」していたりするだろう。ヒトラーだってエヴァ・ブラウンを、毛沢東だって江青を「愛」していただろう。だが彼らには人類愛や博愛はなかった(ただし毛は「文藝講話」で、異なる階級間に「愛」はないと言っている。もっとも、同じ階級だから「愛」があるとも限らない)。
「なぜ自分の家族には愛情深い人なのに、他人には冷酷なのか」というような問題も、この二つの「愛」を混同しているところから起きる。自分の周囲の人間を慈しんだりかわいがったりするのは、そも「愛」と呼ぶべきではないのである。