嶋中雄作宛谷崎書簡

 千葉俊二先生が増補した『谷崎先生の書簡・増補版』読了。あわせて「谷崎詳細年譜」は修正した。谷崎と松子の「密通」について私への異論もあるが、これは改めて活字にしたい。ただ『谷崎伝』における明らかなチョンボが分かった。敗戦後すぐ谷崎は、『細雪』に蒋介石やロシヤ、英国の悪口があるのでどうしようかと嶋中宛に書いていて、とりあえず現行版を見てみたがやはり悪口はあることはあるので、別に何もしなかったと判断してそう書いたのだが、実は私家版からの削除があった。まあ私家版は大学図書館では明大和泉にしかないようで、当時明大は辞めていたから見られなかった、というのは言い訳で怠慢ですね。
 あとがきに「文学研究において新資料による新事実の発見ほど研究の醍醐味を味わわせてくれるものはない」とあるがまったくその通りで、「作品論」とか「テクスト論」とかいって作品だけ読んで感想文みたいな「解釈」をしている者どもよ剋目して見よ、とも思うが、まあそういう人は実際にはごく一部なので…。

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 瀬戸内寂聴の『奇縁まんだら』が売れているようだ。日経新聞に連載されたらしいが、この日経新聞というやつ、私は自分ではもちろん実家でもとっていたことがないから、世間で「日経の連載小説が」云々と言われても、へーえ経済新聞なんかみんなとってるんだー、という感じがしている。ニフティの新聞記事検索でも日経は別枠で料金をとるから、日経の記事というのはほとんど見たことがない。
 さてその『奇縁まんだら』は瀬戸内がこれまで会った作家やらの思い出を書いたもので、毎日新聞張競さんの書評が載っており、和田周の話には驚かされた、と書いていた。和田周というのは、昭和四年に谷崎潤一郎が妻千代を譲ろうとした和田六郎の息子で、既に和田周の話は瀬戸内の『つれなかりせばなかなかに』に、小説体ではあるが書いてある。何か目新しい話でもあったのかなーと思ったら、佐藤春夫との結婚後も千代は和田が好きだったとか、まあその辺は目新しいが、それがびっくりするほどのこととは思われず、たぶん張競さんは、和田六郎が佐藤の弟子になって大坪砂男になったとかいうことを、忘れていたか知らなかったかのどちらかだろう。もっともそれは私の『谷崎伝』に書いてあるのだが、張さんはいま米国にいるから、確認できなかったのだろう。そう考えると、外国にいる人が書評をするというのは、いかがなものかなあ、と思うのである。いや、待てよ、インターネットで私の谷崎年表を見れば…。いや深く考えないことにしよう。