幕見席(2)

 学校の図書館でもせっせと歌舞伎の本を借りてきて読んでいたのだが、すぐに「壁」にぶち当たった。「忠臣蔵」といえば、「歌舞伎の独参湯」とか言われているのに、元は「人形浄瑠璃」だと書いてあるのだ。ど、どういうこと!? と女子中学生の頭は混乱した。調べていくと、「義経千本桜」も「菅原伝授手習鑑」も「夏祭浪花鑑」もみんな「元は人形浄瑠璃」だというのだ。ええっ、じゃあ歌舞伎はどこに? と思ったら、四代目鶴屋南北とか、河竹黙阿弥というのは歌舞伎の作者で、それを「狂言作者」というらしい。ええっ、それって「やるまいぞやるまいぞ」の「狂言」とは違うの? (日本の藝能では「芝居」のことを「狂言」というらしく、「やるまいぞ」は「能」についている「狂言」なので「能狂言」と言うらしい。浄瑠璃を書く人は「浄瑠璃作者」だが、歌舞伎の作者は「狂言作者」らしい)

けれど、近いうちに、円子さまが出る歌舞伎を実地に観に行かなければならないと、真佐子は覚悟していた。

 真佐子の母は、経済大学の卒業だったが、中上健次なんか読んでいた。けれど、歌舞伎について真佐子が訊いてみても、はかばかしい返事は得られなかった。「忠臣蔵」の話は知っていても、「浅野内匠頭」とか「吉良上野介」で知っていて、塩谷判官とか高師直といっても首をかしげるばかりだから、真佐子はちょっと悲しくなった。

 真佐子が住んでいるのは、埼玉県南部の、東武伊勢崎線沿線である。ちょっと都市部から出はずれると、ひろびろとした田んぼ地帯が広がっている。電車に乗れば一時間もすれば歌舞伎座へ行けるのに、時どき真佐子が思うのは、歌舞伎を観るなんてことは、祖父母の代から東京に住んでいるというような特権階級だけに許されることなんじゃないか、ということだ。

 二〇一八年の三月に、歌舞伎座で円子さまが「三社祭」という演目に、虎之助と一緒に出ることが分かり、真佐子はこれを観に行こう、と決心したが、体がぶるぶる震えた。

 「今度、歌舞伎を観に行こうと思ってるんだけど」

 と母に切り出す時は、体が細かく震えて、じっとり汗をかいていた。

 一人で東銀座の歌舞伎座へ行って、夕飯前には帰ってくるということまで伝えると、母は、

 「へえ、マーちゃんも変な趣味を持ったのねえ」

 と首をかしげて考えていたが、

 「一人? 友達と一緒じゃないの?」

 と念押しをしたから、真佐子はここが大事だと思って、汗をかきながら、同じ趣味の友達がいなくって、と言った。母はいくらかかるのか心配したが、真佐子は当日買う幕見席なら、千円前後だから、と懸命に話したが、話しながら目に涙が滲んだ。だって前もって買う席だったら、三階席でも三千円もするなんて、母は知らないだろうし知ったらびっくりしてしまうだろう、知らずにいてほしいと思ったからだ。

 真佐子自身だって、歌舞伎を実際に観に行くと、一万円以上もすることがあると知った時はショックだった。映画と違って人間が実際に演じるんだから高いのは当然なようなものだが、おそらくうちの両親は生涯に一度くらいしかそんなものを観る贅沢はできないだろう、そしてこの世にはそんな高いものをしょっちゅう観に行っている人がいるらしいということに衝撃を受けたからだ。

 夕飯どき、テレビのお笑い番組に見入っている父に、母が、「真佐子が歌舞伎を観に行きたいんですって」と話しかけると、父は上の空で「え?」とか言っていて、弟は、「歌舞伎ってどんなの?」とか言うし、真佐子は初潮が来た時みたいに恥ずかしくて自分の部屋へ駆け込みたかったが、父はどうも大して興味がないらしく、まあいいんじゃないかという許可が曖昧に出た。弟は相変わらず「ねえ。カブキってなあに」と訊いていた。

 当日真佐子は制服を着て行こうと思ったが、母から、制服フェチの男に狙われたりしたらいけないからと言われ、地味めな服装で出かけた。

(つづく)

幕見席(1)

 中学三年の川波真佐子が通っている公立中学校は、ちょっと見には分からないが、真佐子の家からは少し高いところにあった。だから、学校まで歩いていると、途中でしんどくなったり、汗をかいたりする。だが、それがちょうどいい運動になっているらしかった。

 月曜日になって登校した真佐子は、同級生たちが、まるで子供のように思えてしょうがなく、土曜日が休みで良かった、と思った。

 というのは、金曜日の夜、真佐子はショッキングな体験をしたからである。NHKの特集番組で、自分と同年配の丸川円子(えんこ)という歌舞伎役者が、歌舞伎の舞台で「連獅子」という、二人で長い鬘をつけてそれを振り回すさまを見て、すっかりその「円子さま」に惚れ込んでしまったからである。

 「円子さま」は、丸川虎之助という、昔一世を風靡した歌舞伎俳優の孫だそうである。けれど、父親は歌舞伎役者ではなくて、東大を出てエリート銀行員をしていたが、三十歳で一念発起して歌舞伎の世界へ入った。そのため、虎之助の名は、前の虎之助の弟の息子が継ぐことになり、円子の父は丸川楽章という由緒ある名を名のった。けれど、幼いころからその跡継ぎとして舞台へ上っている円子は、いずれ、五代目丸川虎之助になるだろう、と思われているというのだ。

 自分と同じくらいの、その円子というちょっと変わった芸名の男の子に、真佐子は生まれて初めての恋みたいなものをしてしまったのだ。それまでにも好きになった男の子はいたけれど、そんなのは間違った思いだったと思えるほどだった。

 番組は、まだ小学生の弟は自室でゲームでもして遊んでいたけれど、父と母は何となく観ていた。けれど、真佐子は、自分が興奮していることを悟られてはいけない、と途中で思い、素知らぬふりをして、番組が終ると自分の部屋へ駈け込んで、スマホで次から次へと情報を検索した。円子さまだけじゃなく、歌舞伎全般について、歌舞伎座とか松竹のサイトを見て回ったが、途中でくらくらしてきて、新しいノートを一冊下ろして、それにメモをとりながら見て行った。

 翌日も、起きて朝食を摂るとすぐ自室にこもって「歌舞伎しらべ」を始めたのだが、ますます、これは友達にも家族にも秘密にして「ファン」をやっていかなければならない、という信念が固まっていった。何しろ歌舞伎という、江戸時代以来の伝統のある深みと厚みのある世界だから、自分がちゃんと把握していないうちに他人に土足で入ってこられるようなことにはなってほしくないからだった。

 歌舞伎役者の名跡とか屋号とか、覚えなければならないことが山積みになった。あるいは、これはちゃんと上演を観ながら覚えていくのが筋じゃあないかとも思ったのだが、そこで真佐子は妙なことに気づいた。

 YouTube に載っている歌舞伎の演目が少ないのだ。もちろん著作権があるからではあろうが、落語はないものがないというほどアップされているのに、歌舞伎は少なすぎる。それに、それなら有料レンタルとかサブスクで配信されているものが充実しているかというとそんなこともない。有料で売っているDVDもあるが、これも全体からするとだいぶ数が少ない。

 ということは、これから歌舞伎を勉強しようという者は、まるで二十世紀のように、せっせと劇場へ足を運んでちまちまちまちま十年、二十年かけて学んでいかなければならないということなんだろうか。

 真佐子の家には、ラムダというメスの柴犬がいた。昔日本で打ち上げに何度も失敗したラムダ・ロケットという、ギリシャ文字から名前をとったロケットがあって、それからとったのだが、真佐子はラミーと呼んでいた。

 日曜日に真佐子がラミーを散歩に連れて行って、近所の公園に入ったら、ベンチに七十歳くらいのおじいさんが、きっちりしたズボンにベルトを締めて座っていた。そのおじいさんが、どうもラムダと目が合ったらしく、ラムダが「くうん」と言ったから、真佐子はおじいさんの隣に座った。

 「メスの子だね」

 とおじいさんが言った。

 「そうです。ラムダっていいます」

 「昔そういうロケットがあったなあ」

 「あっ、そうなんです、そのロケットにちなんで・・・」

 おじいさんは、真佐子のほうを見て苦笑しながら、

 「でもあのロケット、いっつも打ち上げに失敗していたよ」

 「ええ・・・。でも、何度失敗してもくじけない、という精神を表して・・・」

 「それはいいねえ」

 おじいさんは嬉しそうに笑い、ラムダの頭を撫でた。

 真佐子は、いいおじいさんだと思って、思い切って、

 「あの、歌舞伎とかご覧になりますか」

 と訊いてみた。

 「ん?」

 とおじいさんは目を細めて、

 「テレビでは時々観たなあ。忠臣蔵とか・・・」

 と言って、何か思い出そうとしていたが、急に、

 「そうだ、「お富さん」という歌があるよ。もう私が子供のころにはやった歌だが・・・」

 と言い、

 「粋な黒塀、見越しのまァつに・・・」

 と歌い出した。真佐子は、

 「どんな話なんですか」

 と訊いてみたが、あまり要領は得なかった。帰宅してから「お富さん」で検索をかけたら、「與話情浮名横櫛」という歌舞伎の一部だと分かった。幸い、これは古い映像がYouTubeにあったから、それを観ることができた。

 それは

(お妾さん)――

 になった女の話だったが、歌舞伎といえば、

「芸者」

 とか

花柳界

 とか、中学生の女の子が足を踏み入れてはいけない世界であるような気もして、ぽっと顔が火照ったりしたが、本当にマズいものならNHKで放送したりしないし、歌舞伎役者が人間国宝になったりしないだろう。もっと勉強して、これはまずいと思ったら引き返せばすむことだと思った。

(つづく)

耕治人と川端康成と私道通行権

 「そうかもしれない」などの「命終三部作」私小説で知られる耕治人は、川端康成に師事していた時期があり、しかし川端の妻の妹・松林から土地をあっせんされたものの、トラブルになり、被害妄想から、川端に土地をだまし取られたと思っていて、川端没後に発表した私小説で川端の名を秘してそれを書いたら、「群像」の月評で平野謙藤枝静男らが話して、この名前が書けないことが問題だ、これは川端だと藤枝が言った。これを読んだ立原正秋は、藤枝に電話して訊くと、あれは平野が言ったことで、平野から、藤枝が言ったことにしてくれと頼まれてそうした、と白状した(平野と藤枝は高校以来の友人)。立原は、卑怯だと言って怒り、それを書いて平野とは絶縁した。

 一方、川端研究者の川嶋至は「誰でも知っていたこと」として、川端が耕をだましたのは事実だと「文學界」に書いた。だが川端家と親しい武田勝彦が「誰も知らなかったこと」として反論し、これは耕が民事訴訟を起こし、私有地の通行権の問題に過ぎないことが明らかになり耕が敗訴していると、訴訟記録を示した。川嶋はこの件で文藝雑誌からパージされ、以後文藝誌には書かなくなり、著書も出さないまま死んだ。

 ところで私道通行権というのは、法学のほうでは割と問題になることで、岡本詔治『私道通行権入門』(信山社、1995)のような著述もあり、「・・・に過ぎない」で済むほどのことではなかったようである。

小谷野敦

津原泰水と私

 私が津原泰水という作家を知り、いきなり電話で話して面倒なことになったのは、ちょうど十年前、2012年9月のことだった。二歳年下の津原は、当時川上未映子とトラブルの関係にあった。これは2010年に川上が新潮新人賞の選考委員に抜擢された時、津原が異を唱え(芥川賞受賞から三年で、早すぎるというのだろうが、これは私にも異論はない。新潮新人賞又吉直樹の時も同じことをした)。そのあと津原の掲示板や2chに津原への誹謗中傷が書き込まれるようになった、というのが発端らしい。津原は川上とは面識があり、「尾崎翠とか読んだら」と助言したが、川上は尾崎翠を知らなかったとかいうのだが、川上の出世作「わたくし率 イン 歯ー、または世界」(2007)が、津原の「黄昏抜歯」(2044)の盗作だというのは、津原が言ったのではなく、どこかから出てきた噂だったが、津原が自身への誹謗中傷の書き込みを川上、または川上の指示を受けた者の仕業だと考えて裁判に持ち込んだのであった。
 私はある日ツイッターで、「若菜」と名乗る女から「津原泰水さんに訴えられています」という話しかけを受けて、へえそうですかと相手をしていた。すると「烏賊娘」を名のる謎のアカウントがいきなり私をバカにし始めたのだが、これは明治大学出身の男で、津原の手下のようなことを当時しており、津原の川上攻撃のブログの管理をしていたらしい。私は面倒に思ったので津原にメールして、こいつを何とかしてくれと頼んだのである。津原はこの「烏賊娘」をえらくかわいがっていて、裁判で私についての悪口をウィキペディアなどに書き込んだのが「若菜」であることを教えてきた。「烏賊娘」は、川上未映子の仲間から悪口を書かれているのにそいつの相手をしている間抜けだと言っているらしい。若菜は、福島県在住の統合失調症患者だという。ただ、私はさほど興味がなかったので適当にあしらっていたら津原が急に、せっかく教えてやっているのに態度が無礼ではないかと言い出したから、そんなこと言われても私はあなたの川上未映子問題に関心があるわけではないし、困ると言ったら、電話で話しましょうと言ってきた。
 そこで遭遇した津原は、かなり面倒くさい人間だった。まず、私が笙野頼子と戦い続けていることについて津原は、小谷野さんってフェミニストだなあ、あんなのただのババアじゃないですか、と言い出した。そして、「若菜」がかつて川上未映子の裏方であったことを言い、自分への誹謗中傷が川上の指令である可能性を示唆した(結局それは関係ないことが分かった)。私が『ヘヴン』は結構ちゃんと筆力を示していたんじゃないかと言うと、それも何かの新人賞の最終選考に残ったものの書き直しじゃないかと思っていると言い、川上は美人だと思われているが「へちゃむくれですよ」と言った。私はこの発言から、津原は川上が好きなんじゃないかと思ったが、作風から見て津原はゲイじゃないかと思うから違うだろう。当時川上は『愛の夢とか』で谷崎賞を受賞していて、選考委員の筒井康隆は難色を示していたが、私もこの短編集での受賞は無理だなあと思っていた。ところが津原は、かつて芥川賞をとって全盛を誇った川上も今は「影も形もないわけです」と言うので、へ? と思った。津原はこのように、そうであってほしいという願望を事実と取り違える傾向があり、統合失調症人格障害の疑いがあると思った。
 「烏賊娘」が匿名であることについて、津原は、匿名で他人を攻撃するのは卑怯ではないか、という私の意見に賛同してはくれた。だが、自分も「烏賊娘」の実名は知らない、と言う。それならつきあうべきじゃないんじゃないかと私は思った。
 あとは、川上未映子がウェブ上で、映画化に際して書かれた尾崎翠の略歴をパクったとかも言われていて、略歴は著作物じゃないからそんな話は成り立たないのに、と思った。なおこの時、「毎日新聞」で文藝時評をやっていた田中和生が、津原の言い分を真に受けて、時評で川上未映子は扱わないことにするなどと宣言していた。それでいてのちに北條裕子の『美しい顔』が単行本になった時は率先して取り上げていたが、実に田中和生もおかしなやつだ。
 津原は例の「烏賊娘」を、文藝賞の授賞式に連れて行ったことがあると言い、一般人をむやみにそんなところへ連れて行っていいのかと思ったが、津原は「烏賊娘」が高橋源一郎のところへ駆けて行って質問していたのを「かわいいんですよー」と言っていたから、やっぱりゲイなのか、と思った。しかし、私の知らない人間を「烏賊娘」などという変な名前で呼び続けることに、私はむしろ非常識さを感じた。のち「烏賊娘」は例のブログで、別の作家の盗作についても書いていたが、片岡直子がやったみたいな片言隻句をとらえて、似ている、盗作だとするもので、これは明らかに統合失調症だった。そしてのち、津原を裏切って逃亡したらしい。
 当時私は一回目の芥川賞候補と二回目の間で、小説を書いても出してくれる出版社がない、とぼやいたら津原は、文藝エージェントを使えばいい、と言い、自分も『ブラバン』という作品をエージェントに頼んだら、バジリコという聞いたこともない出版社を見つけてきてくれたと言っていたが、バジリコなら知っているし、だいいち私が書いているのは純文学で、津原は通俗作家だからエージェントに金を払ってもやっていけるんじゃないかと思った(執筆依頼を受けて編集者と会って内容について相談したこともあるそうだが、私にはそういう経験はない)。津原は高橋源一郎谷崎賞受賞作『さよならクリストファー・ロビン』に対しても批判的で、それはいいのだが「読んでないのまるわかりじゃないですか」と言うのだが、「読んでない」のは『くまのプーさん』らしく、それはないだろうと思った。あるいは高橋について「でも今じゃ文壇の大御所的な存在でしょう?」と私が言うと、津原は「だって明学でしょう?(高橋は明治学院大学教授だった)」と言うのだが、どこの大学の教授であるかは文壇の大御所であるかどうかとは何の関係もないに近いだろう。こうして津原の言うことはいちいちがズレているのだった。
 あとは私が、『文學界』以外の文芸雑誌には載せてもらえない、とぼやいたら津原は口調に笑みを含んで「小谷野さん、私もですよ」と言ったのだが、私は、だってあなたは純文学作家じゃないでしょう、と思った。あとで調べたら『文藝』にエッセイを書いたことがあったらしいし、その後『文藝』に連載していたから、まあ幻想文学という微妙なジャンルということか、とは思った。
 だが、数日してまた電話がかかってきて、妻のことまで「かわいくてしょうがないでしょう」などと言われてうんざりした私は、もう電話はやめてくれ、とメールして、一時は終わりになった。なおこの時、津原はちくま文庫の自著二冊を送ってくれていたが、少し目を通して、私には合わないと感じて全部は読んでいない。私のほうでは、私が書いたものをこの人は楽しまないだろうと思ったから送っていないと記憶する。
 一方、その年の五月に私は清水博子という作家とメールをする機会があり、清水は、笙野頼子から「川上未映子をいじめたんだってな」と言われ絶交された、と嘆いていた。私は笙野に絶交されると何が困るのか分からなかった。翌年、清水は急逝してしまい、自殺ではとも言われたが、よそで聞いた話では、私は行ったことのない文壇バーで、川上未映子に、出自について問い詰め、バーを出入り禁止になったという。ところが津原は清水と親しかったらしく、その文壇バーで清水の追悼式をやろうとしてもめたという。ところが笙野が「川上未映子とは面識がない」というコメントを出していて、津原はそれに対してツイッターで「ボロクソです」と言っていたのだが、「面識がない」がなんで「ボロクソ」になるのか分からないので、私は引用RTしてそのことは指摘しておいたが、これに関しては津原といえども何も言い返してこなかった。(なおこの件に関して、面識がないなら私が言ったことは間違いだと言った人がいたので、下にそれを説明したブログを貼っておく)
 2019年に津原は、百田尚樹の『日本国紀』にインネンをつけて、幻冬舎から出す予定だった文庫が没になり、ハヤカワ文庫から出すという騒動に発展したが、私は、川上未映子を攻撃しても広い支持は得られないと知った津原が、軽薄な左翼勢力の支持を当てにして騒いでいるとしか思えなかった。すでに百田著には大勢の批判があり、その尻馬に乗って騒ぐ行為は、花村萬月が津原をさして言った「美意識」はまったく見られなかった。
 2020年ころだったか、私がツイッターで「津原やすみは、純文学と娯楽小説の区別がついてないんじゃないか」と書いたら、エゴサーチですっ飛んできて、「分からないので教えてください」と言ってきた。これは、純文学と大衆文学には中間的なものもあるし、重層的に決定されるものだからたくさん読んで判断するしかないし、私には『純文学とは何か』という著書もあったのだが、これに対してはかねて「定義が書いてない」という声があり、津原もおそらく「純文学の定義」を求めてうざがらみするだろうと思われたので、腹をくくって「芥川賞受賞作は読んだことがありますか」と訊いたら、「二、三作は」などと答えていたが、「『万延元年のフットボール』は読んだことがありますか」と言えば「それに定義が書いてあるのですか」などとからんでくるから、少し続けたが、むしろ鬱陶しい「信者」が騒ぎ出して当人よりそっちのほうがうざかった。
 津原は筒井康隆を尊敬しているらしいのだが、筒井の『虚航船団』が「純文学書き下ろし特別作品」であることに気づいて、「筒井さんも色々あったんだろうな」などとつぶやいていたが、筒井は当時「純文学批判」をしてほしかったと批判してきた栗本慎一郎に、そういうことは意図していないと答え、自分には文学への憧れがあると言っていたのだが、それも読んでいないのかな、と思ったが面倒なので放っておいた。
 津原の歿後、津原が推薦する内外の小説リストというのがウェブにあったので見てみたら、なるほど幻想文学寄りではあるが、漱石も、鏡花も、中勘助もあるし、驚いたことに『死の棘』まであった。筒井康隆私小説を批判したことがあるので、『死の棘』もダメなのかなといつも思っていたので、津原にとって『死の棘』がいいんだったら近松秋江だっていいんじゃないかと思った。しかし、大江健三郎はなかったし、内外の古典もなかった(源氏物語や、シェイクスピアホメロス)。近代ものが主だった。
 「信者」にはすまないが、私は津原の小説を評価していない。文章が決定的に良くないからで、しかし信者はこの文章が好きであるらしいから、見解の相違と言うほかはない。たとえば先に出た「黄昏抜歯」の最初の部分だけで全然ダメで、「口を握りこんだ」などという日本語は私は日本語文として認めることはできない。
 

https://dioptase7.exblog.jp/15444222/
(「烏賊娘」と栗原裕一郎のやりとり)
https://jun-jun1965.hatenablog.com/entry/2020/07/30/114332
(面識がなくてもできること)

音楽には物語がある(46)小林幹治と「みんなのうた」 「中央公論」10月号

 前回触れた小林幹治という作詞・訳詞家については、ご子息で俳優・演出家の小林顕作さんに連絡をとって、いろいろご教示をえた。小林顕作という人はそれなりに知られた人で、私は毛皮族という劇団の「天国と地獄」という演劇をDVDで観たが、そこではプルートーの役で出演していた。

 さて、小林幹治(敬称略)は、一九三三(昭和八年)七月二十七日、埼玉県深谷の生まれで、私の父と同年である。「かんじ」だが「みきはる」とも読む。没年月日は二〇〇四年五月三十一日で、七十歳だった。学習院大学文学部英文科卒で、北区に今もある野ばら社という出版社の創業者である志村文蔵の息子の志村建世と同じ学科の同期生だったらしい。建世氏は今もご存命でブログをやっておられるので、小林幹治の卒論が何だったかお訊ねしたが、息子さんともども、分からないとのことだった。志村さんご自身の卒論は陶淵明とワーズワスの比較だったという。小林幹治の卒論も恐らくは詩についてのものだったのだろう。卒業後、志村さんはNHKに、小林幹治はカッパ・ブックスの光文社に入る。神吉晴夫カッパ・ブックスを創刊したのは一九五四年だから、ちょうどそのあとあたりになるが、小林は、野ばら社から歌や詩の編纂書を刊行している。『世界歌曲集』志村建世共編(一九五八)、『伊藤左千夫歌集 野菊の墓・語録』編(同) 『若山牧水歌集』布施益子共編(一九五九)『青空歌集』林文夫共編(一九六一)がある。野ばら社は今でもこういう愛唱歌集などを刊行している。

 さて小林はそのうち、独立して、ネームプレートを作る小林製作所を設立し、友人の志村が「みんなのうた」を担当していたので、一九六二年からその手伝いを始めた。これについては小林自身のノートも見せてもらったが、それを記録と照合すると、

 一九六二年九月 川で歌おう(ラサ・サヤン)インドネシア民謡

  十月―十一月 サモア島の歌 ポリネシア民謡

  十一月 踊ろう楽しいポーレチケ ポーランド民謡 

  十二月-一九六三年一月 駅馬車 アメリカ民謡 

一九六三年三月 春が呼んでるよ(ヤシネック) ポーランド民謡

 四-五月 赤い河の谷間 アメリカ民謡

一九六四年八月 海のマーチ 「コロンビア・大洋の宝」デイヴィッド・T・ショー

 十月 たのしいショティッシュ スウェーデン民謡

 これらは「みんなのうた」のもので、訳詞だというから、英語版から小林が自由に訳したということだろうが、かなり有名な作品も入っている。「駅馬車」「赤い河の谷間」もそうだし、「たのしいショティッシュ」の、ショティッシュフォークダンスの一種のことらしいが、歌詞を聞いてもそれは分からないのに、なぜか聴いていて楽しい歌である。「ララ真っ赤な帽子にリボンがゆれてる」というやつで、これほど有名な作詞をした人なのに、これまでちゃんと調べられていなかったのである。

 ほかに、

一九六三年十二月 みかん畑で  ポーランド民謡

一九六四年六月 こんにちはやまびこさん 

ターナー作曲 「聖者の行進」がこのあとにあるが、これらは「みんなのうた」ではなかったらしく、NHKの番組で何度か使われたようで、九月の「リズムにのって」(弘田三枝子ほか)あたりだろうか。

 十二月から六五年一月が「陽気にうたえば」メキシコ民謡

一九六五年三月 ゆかいな牧場(イーアイ・イーアイ・オー)アメリカ民謡(「いちろ

うさんのまきばで」で始まるもの) 

  四-五月 輪になっておどろう(イレ・アイエ)インドネシア民謡       

 ところが、これっきりで小林は訳詞をやめてしまったらしい。息子さんによると、人気があってあれこれ言ってきたので、怖くなってやめたという。もしかすると、表面に出ることの苦手な人だったのかもしれない。