「反論もできない一般人」の神話

 その昔、文筆家が誰かについて何かを書いて、書かれたほうが迷惑に思ったりすると、しばしば「相手は反論もできない一般人だ」などと言われたものだが、こういうのは要するに、正義の面をかぶっているだけであることが多い。いちばん笑止だったのは、臼井吉見の『事故のてんまつ』の時で、川端香男里が、川端康成はもう死んでいる、だから遺族は反論もできない一般人なのに、などと言ったのだが、川端香男里は東大助教授で、川端夫人だった人ともども、さんざん週刊誌に出て「反論」していたのに、何が「反論できない」かと苦笑したものである。
 さて、しかるに、インターネットの時代になって、実際には誰でも反論できるようになった。そうなると、「反論できない一般人」の神話を守りたい人は、注目度が違うとか何とか、こじつけ始める。だが、筒井康隆の断筆宣言が、筒井がいくら『噂の真相』に書いても、新聞報道に勝てないという状況から起きたものであることからも分かるように、本当の権力者はマスコミなのであって、臼井や筒井のような一文筆家ではないのである。
 もう一つは、あえて反論しないことを良しとする「大人の世界」による解決で、ウェブはバカと暇人のもの、などと言っておいて、ウェブ上で発信しないことこそ真のセレブである、といった態度で通すことである。
 そこからすると、絲山秋子が『群像』での合評に対して『本の雑誌』で反論した際に、ああいう批評に対しては「泣き寝入り」だなどと前書きしているのはおかしいのであって、絲山には自分のウェブサイトがあって、そこに反論を書けばいいのである。文筆家だから、原稿料の出ない仕事はしない、というなら、それはまあ勝手だが、「反論する場がない」などとは言えないはずなのである。というか私は絲山には「一円訴訟」の真相をちゃんと説明してほしいのだが。