「合体したい」とプラトニック・ラブ

新明解国語辞典』の「恋愛」の項に、「出来るなら合体したい」という気持ちと書いてあるのは有名だが、佐々木健一『辞書になった男』を見たら、これに対して「プラトニック・ラブ」は恋愛じゃないのか」と言った人が出てきた。

 これは以前から疑問なのだが、「プラトニック・ラブ」というのはもともとマルシリオ・フィチーノプラトンの「饗宴」を翻訳注釈したところから出たもので、プラトン少年愛のことを言っているのに、男女間のものに誤解されてできた表現だ。

 それはいいとして、恋をしたら最終的には合体したいと思うものではないだろうか。まず結婚したいと思うなら合体するわけだし、人妻なので合体できないということがあっても、「出来るなら合体したい」はあるわけだ。

 「恋愛輸入品説」によると、肉体慾を離れた清浄な恋愛観が輸入されたというのだが、だからといって、最後までセックスしない、などと心に決めた恋愛があったのだろうか。ジッドの『狭き門』などは、それで若い女に受けたというのだが、まあセックスしない恋愛を「まあすてき」と思う女子がいたとして、好きな男に迫られて、生涯セックスはしない、などという女子がいただろうか。岸田秀とこの件で論争した時、岸田が、自分の友人で、清浄な恋愛だからセックスはしない、と悩んで自殺したのがいる、と言っていたが、それは極端なケースではないか。

三島由紀夫×川端康成 運命の物語 [DVD] アマゾンレビュー

2020年10月23日に日本でレビュー済み

 

 

「風と共に去りぬ」について

スティーブ・マックイーンといっても俳優ではなく、黒人の映画監督が撮った「それでも夜は明ける」という、実話に基づいた映画を観た。1840年代に、米国北部に住んでいた自由黒人が拉致されてルイジアナに奴隷として売られ、12年近く使役されたさまを描いたものだが、その奴隷への待遇があまりにひどく衝撃を受けた。「アンクル・トムの小屋」だってこんなことは描いてなかったし、そもそも南部での奴隷使役をこんな風に描いた映画自体私はほかに知らない。ぜひ観ておくべきだ。

 それではっとしたのが「風と共に去りぬ」で、あそこでは黒人奴隷との平和的な関係が描かれているが、あれは嘘だな、と思ったのである。私は『聖母のいない国』で「風と共に去りぬ」を扱っているが、多分そこのところは見通しが甘かった。まあ、岩波文庫新潮文庫で新訳が出ているし鴻巣の「謎解き」本も出ているくらいで日本では甘いのだが、私の著書は新版が出ることがあったらただし書きをつけなければならないだろう。現実の南部の奴隷使役はこんなものじゃなかった、という。

小谷野敦

朝日新聞タダ入れ

十日ほど前に朝日新聞の販売所から電話があった。番号順にかけているらしくこちらの名前も住所も知らず、四日間無料で配ってくれると言うから、住所は教え、名前は妻の姓を使った。数日後から配達が始まったが、昨日若い販売員が来て、あれこれギフト品をくれて、「電話であんな優しく対応されたのは初めてです、もういきなり切られたりするのに」と言うからゲラゲラ笑った。それで、半年でいいからとってほしい、と言うので、それはダメだよ、私は昔朝日には書いてたんだけど最近冷たくされているから、と言ったら、ええっそうなんですか! すごいじゃないですかとか言うからまたゲラゲラ笑った。私は改憲派だからダメらしいよ、新聞なんだから両論併記でしょう、と言うと、本社に電話して文句言います、と言うからまたゲラゲラ笑った。

音楽には物語がある(17)国民歌手・中島みゆき(3) 中央公論2020年4月

 「大器晩成」という言葉があるが、これは三十代、四十代になっても芽が出ないような人を慰めるための言葉のような気もする。たとえば古今亭志ん朝が真打に昇進した時の落語を聴いたことがあるが、最初から上手いのである。立川談志でも春風亭小朝でも、最初から上手かった。まあ三遊亭圓生などは、はじめは受けなかったと言っていたから晩成型かもしれないし、柳家小三治は最初はあまり上手くなかった。どちらもある、でいいのだが、中島みゆきは、今にして思うと最初から大器だったのだな、と思わせられる歌手である。

 ところが、ほかにもそういう人はいるかもしれないが、幸福な恋愛とそのヴァリエーションを歌う松任谷由実に比べて、不幸な恋愛を歌う中島みゆきは、いつまでもマイナーな人間たちの側にいるはずだと何となく思っていて、今世紀に入ってからの、「国民歌手」への歩みを、裏切られたように感じる、そんな気持ちが私にもある。そして振り返って、ああ、最初からそうなるべき人だったのか、ラジオDJでの明るさというのはあれがむしろ本性だったんだ、とちょっと寂しく思ったりするのである。つまりファンとしては「りりィ」みたいな感じを想定していたわけである。

 中島みゆきがメジャー化した道程はかなり着実で、九〇年代には映画やドラマの主題歌が多くなり、「空と君とのあいだに」や「最後の女神」あたりでパッと一段階上がった感じがする。「空と君とのあいだに」のシングルCDの裏に「ファイト!」が入っているのだが、これは私には複雑な気分を催させる歌で、特に中島が「国民歌手」になってからは一層そうである。ここでは、名もなき弱者が、世間と戦うさまを応援しているのだが、言っていることはいいけれど、歌っているのが社会的成功者だと思うと胸から腹のあたりがムズムズせざるを得ないという意味で、である。

 主題が「失恋」である間は、まあ世間には失恋を売りものにして売れっ子作家になった久米正雄のような人もいるし(といっても東大卒だが)、いいのだが、「戦う君」と「戦わないやつら」と来ると、成功者・中島みゆきが何を言うか、と思えてきてしまう。下町の人情を描いたり、社会の底辺に生きる人をとらえるとされる山田洋次は、東大卒で映画を次々とヒットさせる社会的成功者なのだが、寅さんのファンはそういうことはあまり気にならないらしい。寅さん映画には、米倉斉加年などが演じるインテリも登場して、寅さんと好対照を見せるのだが、それを東大卒の山田洋次が作っているのが私にはおかしいが、一般の観客は気にならないらしい。

 さらに中島が「国民歌手」となっていったのは、二〇〇〇年に放送が始まったNHKのドキュメンタリー「プロジェクトX〜挑戦者たち〜」のオープニング「地上の星」とエンディング「ヘッドライト・テールライト」を歌い、同番組が話題になったあたりである。人に知られず偉大な仕事をしている人たちを取り上げた番組だが、ここでも、番組に取り上げられた時点で、もうある程度知られたものになっているという逆説がある。

 二〇〇二年の紅白歌合戦に出場し、黒部峡谷からの中継で「地上の星」を歌ったのが、中島みゆきが国民歌手になったメルクマールであったと言えよう。かつてシンガーソングライターなどが紅白への出場を辞退した時、紅白のような権威はいずれ滅びていくのだろうと思われたが、どっこいそうはいかなかった。さらに二〇〇六年には藝術選奨文部科学大臣賞を受賞、〇九年には紫綬褒章を受勲して、「ああ、中島みゆきという人はこういうエライ人になったんだ」と往年のややファンだった私に思わせたのであった。

上野千鶴子「女たちのサバイバル作戦」アマゾンレビュー

2013年10月3日に日本でレビュー済み

 
 『文學界』連載中に、お仲間であるらしい酒井順子の『負け犬の遠吠え』を褒めて、なぜ男版『負け犬の遠吠え』は書かれないのかと不思議なことを問い、男たちは現実を直視したくないからだと書いていたから、産経新聞石原千秋が、『もてない男』はどうなのだと問い、私もまた、『電波男』や『崖っぷち高齢独身者』があるではないかとただしたのだが、本にするにあたってもその個所はそのまま。そりゃそうだ、最初から確信犯的嘘つきなんだから。
 まあこの人はもはやお笑いの人でもあるが、嘘をついてはいけないという倫理はまったくない人である。
 

あいまいな学問

 1980年代に、外国人留学生が、日本の近世初期のイエズス会典礼劇の影響で歌舞伎が成立したのではないかという論文を出した。だがこれは刊行されず、河竹登志夫先生の『歌舞伎美論』の中で紹介されたにとどまった。98年ごろ、丸谷才一が同じようなことを言い出して、山崎正和渡辺保も認めてくれた、すごいすごいと書いていたから、私は『歌舞伎美論』のコピーを丸谷に送った。のちに丸谷は、河竹の紹介にも触れてあれこれ言っていた。

 ところがこの説は、別に批判されるでもなく、定説にもならなかったから、訊いてみたら、歌舞伎の専門家に認められなかったという。といってもこれは一般読者には分からない、裏で抹殺された説で、学問の世界にはこういうことがあるから、侮れない。というか、いい加減なものだ。