中村吉右衛門のことを「播磨屋」と呼ぶ人がいる。私も昔は「天王寺屋が」なんて言っていたが、いかにも通ぶっていて嫌味なので、今はそういうことはしない。まあこれは歌舞伎なんか好きで観ていると誰でも一度はかかるはしかみたいな「屋号病」であろう。俳優名に「丈」をつけたり、落語家を「噺家」といったり、俳優を「役者」と言ったりするのもそれ。歌舞伎座の案内係に、タイムテーブルが貼ってあるのに、わざわざ「はねるのは何時?」と訊いたりするようになり、さらに病が重くなると、電球をつけるのに踏み台を「二重」と呼ぶようになる。タクシーに乗って「そこまっつぐ行ってくんねえ」とか言いだす。
 あるいは「紀尾井町」とか「抜け弁天」とか住んでいる地名で俳優や落語家を呼ぶ。その延長上に(これはやや差しさわりがあるが)、ブログの名称を自分が住んでいる土地の名前にして「浜田山日乗」とかやる。「西御門雑記」とか「成城だより」とかもその類。ただし東京と鎌倉に限定、とか。
 しかし歌舞伎批評に「型」があって、批評を書くほどの頭のある人は、この「歌舞伎批評病」にかかることがあり、これはなかなか根が深く、「肚」とか「性根」とかいう言葉を使いたがる。「世話と時代の生け殺し」とか言う。杉山其日庵三木竹二を神様のように思う。あといろいろあるんだが思い出せない。玉手御前は本当に恋しているかのように演じなければいけない、と言って批評する。なんで偽りの恋なのにそうなのか、は問わないとか、批評病の一つである。
 だが残念ながら、この病が治るのは、歌舞伎とかを観るのをやめる時である。