谷崎恵美子の見合い

十川信介先生からお葉書。芥川の言う「新生」はやっぱり藤村で、ルソーの『懺悔』のあとに、藤村が「懺悔」をした『新生』が来るのだろうと言われる。
 だがあれは「嘘」という総題で、ルソーに「英雄的な嘘」が多い、ときて、それから『新生』で「老獪な偽善者」と来る。しかし藤村が嘘を書いたという裏付けはないはずで、しかもあれは「偽善」ではないだろう。偽善的なのはダンテのほうである。 

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徳岡孝夫(1930− )の随筆集『お礼まいり』(清流出版、2010)に「「別れ」が消えた」というのがあり、その中に、日本が独立を回復して間もないころ、海外視察のため永井道雄(1923−2000)が羽田空港から飛び立つ見送り人の中に谷崎潤一郎の姿があって人を驚かせたらしいと書いてある。さらに徳岡は、永井はアメリカ帰りの新進の独身学者で、谷崎の養女・恵美子(1928− )と見合いをした、と書いている。永井は1952年に米国留学から帰って京大助教授になっているから、その後のことだろう。松子によると、55年秋に、貸倉庫に恵美子の結婚衣装などをしまったとあり、見合いがうまくいかなかったことを書いているから、この年ではあるまいか。永井の年譜というのは見つからないが、55年7月の『中央公論』に「台湾・香港・澳門」を書いていて、その夏、親友のドナルド・キーン(1922− )とともにこれらの場所をまわり、キーンはそのままケンブリッジへ発ったとある。キーン、永井、中央公論社長の嶋中鵬二(1923−97)は友人で、永井は嶋中が死んだショックで寝込み、三年後に死んだというくらいで、谷崎は中央公論系の作家だから、はなはだありうる話である。徳岡はまた三島、キーンと親しかった。恵美子は30回だか40回だか見合いをして決まらず、演劇活動で知り合った観世栄夫(1927−2007)と、それから七年ほどしてようやく結婚している。