老獪な偽善者

 芥川龍之介の自殺後発表された『或る阿呆の一生』に、「『新生』の主人公ほど老獪な偽善者に出会ったことはなかった」とあった。これは島崎藤村の『新生』のことだとされている。藤村は、これについて書いており、この『新生』が私の『新生』のことだとすれば、としている。
 つまり、ダンテの『新生』ではないかという疑問もあるわけだが、私は近ごろ考えて、ダンテのほうではないかと思うようになった。なぜなら当該文は、

しかしルッソオの懺悔録さえ英雄的な嘘に充ち満ちていた。殊に「新生」に至っては、――彼は「新生」の主人公ほど老獪な偽善者に出会ったことはなかった。が、フランソア・ヴィヨンだけは彼の心にしみ透った。彼は何篇かの詩の中に「美しい牡」を発見した。

 である。ルソーとヴィヨンの間に藤村がはさまるだろうか。ダンテのほうがよほど自然である。しかも、『新生』は例の、ベアトリーチェへの恋を歌ったものだが、その時ベアトリーチェは死んでいて、ダンテは別の女と結婚しているのだ。対して、妻を亡くした藤村のもとへ手伝いに来ていた姪と関係して妊娠させてしまい、それを告白する藤村は「偽善者」ではなかろう。むろん一般には、告白することで正直さを見せつけようとしたから偽善者なのだとされているわけだ。
 『侏儒の言葉』にも、「果して『新生』はあったであらうか?」とあるのだが、私は、ルソーとヴィヨンの間に藤村が来るのは変だという点で、ダンテだと思う。ただ若い時に二度ちらりと見たばかりのベアトリーチェへの恋を告白するダンテ。それを追いかけるでもなく別の女と結婚したダンテ。もちろん、ヴィタ・ヌオーヴァは、既に大正時代、『新生』の題で中山昌樹の訳が出ていた。