ネタが割れる

 東大文学部宗教学で今年から准教授になった藤原聖子という人の岩波新書を読んでいた。日本の「倫理」の教科書における宗教の扱いにいちゃもんをつけて、諸外国より公正ではない、と言うのだが、どうしてもいちゃもんにしか見えない。だいたい、諸外国といっても、社会主義国はないから、おおよそはキリスト教国か、イスラム教徒の多い国とか、いろいろ宗教問題のある国で、しかもそれらの教科書は「宗教」の教科書だし、日本の「倫理」と比べてもしょうがない。
 しかしふと、仏教は推奨しているがキリスト教はそうではないとか、妙にキリスト教関係にうるさいので、きっとこの人はキリスト教に違いないと思った。聖子という名前もいかにもそういう家庭に育ったらしい。ふと気づいたら、大学で私と同期なので、卒業予定者名簿を見たら、雙葉高校の出身だったから、さてこそと思った。何しろ私と文三で同じクラスで、やはり雙葉から来て宗教学科へ行った、つまり藤原氏と同期の女性など、キリスト教関係の仕事に就いているくらいである。
 ただまあ、ヒンドゥー教に対して差別的だとか書いてあるのだが、そりゃカースト制度を支えているんだから、ひどい宗教だと思われても仕方ないでしょう。
 それに、宗教について公正・中立的に書くというなら、仏教・キリスト教イスラム教を三大宗教扱いするのも公平じゃなくて、道教儒教はもちろん、バハイ教やドゥホボール教やブードゥー教だって均等に書かなければならないことになる。たとえば文学史の教科書にしたって、誰それは偉大であるといった価値判断をして書かれているのだから、そこは中立的ではない。ある事象に限定して中立的記述を目指すことはできても、教科書において内容の選択が中立的である、ということはありえないのだ。