意味づけ歴史学

 田中悟の『会津という神話』をようやく図書館から借りだした。五月に申し込んで今までかかったのである。何しろ本文は二百ページくらいなのに6500円という値段では、おいそれと買えないのである。
 福島県民は山口県民を憎んでいる、といった話は、「探偵! ナイトスクープ」でも取り上げられたことがあり、その後次第に有名になっていった。戊辰戦争の話である。田中は、それが実際には会津藩の武士たちの話に過ぎないこと、当初は「朝敵」であった会津藩が、その一族から秩父宮妃を出し、十五年戦争の時期に徳富蘇峰が、京都守護職であった松平容保の勤皇を強調する講演を行い、戦後1965年の司馬遼太郎『王城の護衛者』によって、広く「悲劇の会津藩」のイメージが知られるようになり、萩市からの提携都市の申し出が蹴られた経緯など、山口-福島の対立が、むしろ事後的につくられたものであることを示していて興味深い。何しろ、福島県といっても広く、会津地方、中通り浜通りと分かれるし、郡山を事実上の故郷とする久米正雄は『伊藤博文伝』を書いているのである。
 会津の悲劇が広く知られるようになったのは、1980年の大河ドラマ獅子の時代』で、菅原文太会津出身の武士を演じたため、維新後、会津藩下北半島の斗南に転封されて辛酸をなめたことが知られ、90年、津村節子は小説『流星雨』で斗南藩を描き、高い評価を受けた。大河ドラマは、77年に『花神』で大村益次郎を描いたが、これは会津からすれば不倶戴天の敵であるから、もしかすると福島県からの働きかけがあって、80年の『獅子の時代』になった可能性もある。だが実際には、会津若松という一つの藩の武士の話でしかないものが、人数的にははるかに大きい「福島県民」にまで広まってしまったわけである。
 だからこの本は、部分的には面白いのだが、残念なのは、余計な意味づけが多いことで、副題には<「二つの戦後」をめぐる「死者の政治学」>とあり、序章では田辺元を論じたり、カール・シュミットを用いたり、まあ簡単にいえば「カルスタ」的な意味づけが余計なのである。博士論文だから、分量が必要でこうなったのではないかとも思えるが、これはむしろ単なる事実の部分だけを中公新書あたりにしたら、こんな手間をかけずに読めたのである。
 歴史に余計な意味づけは不要だというのはここのところで、近ごろの人文学には、こういう、西洋の理論を引っ張ってきたりしての余計な意味づけをするものが非常に多い。実際にはそれはなくても話は成立するのに、である。小熊英二などは、最初の『単一民族神話の起原』は、さして余計な意味づけなく面白かったのに、その後どんどん意味づけをするようになってしまった。
 (小谷野敦