水の江滝子が死んだ。「ターキー」と書いてあったが「タアキイ」だろう。もとより、私にとっては遠い過去の人である。そのタアキイ伝を中山千夏が書いていた。『プリンプリン物語』に、ドン・ガバチョが特別出演したことがあって、その時は藤村有弘だった。のち「ひょっこりひょうたん島」がリメイクされた時は藤村はもう死んでいたから、これが藤村最後のドン・ガバチョになったわけだが、昔の仲間について回顧する中で「選挙運動に夢中になっている人もいる」と言ったのはハカセくんの中山千夏だったわけだ。
中山は『古事記』現代語訳をしていたが、どういうものか、日本の左翼の中には、天皇制と格闘したあげく『古事記』に向かう人が多い。長部日出雄のように、『古事記』に熱中して「転向」してしまった人もいる。別に左翼でなくとも、河合隼雄のように、月読が日本の中空構造だとか、スサノオ性がどうとか、トンデモになってしまう人もいる。
左翼のほうは、天皇制の、ありもしない「深層」を探ろうとしてそうなるのだろう。まあいずれにせよ、いくら『古事記』という、単独の資料を引っくり返したって何も出てこない。
マサオ・ミヨシが死んでいたのに気づかなかった。大江健三郎は追悼文とか書かないのか。
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アメリカ人が書いたエッセイとか評論の翻訳を読んでいてしばしばイライラするのは、あの冗長なジョーク混じりの文体である。日本人には面白くも何ともないことをだらだらだらだらと書いていて、しまいには本筋がどこにあるんだか分からなくなる。
『たまたま』というのを読んでいたら、もうそれで嫌になった。扉の後ろにマセラッティかヤギがいる、というのが、ヤギがいつしか、トルラキアの方言で書かれた『トロイラスとクレシダ』になったり、セルビア語のシェイクスピアになったりする。「つまらないもの」という意味のジョークなのだが、面白くも何ともなくて、読んでいて気が狂いそうになる。こういうのを原文に忠実に翻訳するのも、どうかと思う。こんなのは適宜はしょって訳したほうがよっぽどいい。
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