私小説の定義

 『週刊読書人』を立ち読みしたら、栗原さんの文藝時評で西村賢太をとりあげて、こういう自己戯画化小説を私小説と呼ぶのはどうか、みたいなことが書いてあった。
 私小説という語は、このように定義なく恣意的に使われてきたわけで、漱石の『道草』など普通に考えれば私小説なのに、そうではない、と強弁され続けてきて、それはたとえば長塚節の『土』が明らかに自然主義小説なのに、長塚が自然派ではないからそうは言われなかった、と正宗白鳥が『自然主義盛衰史』で述べているとおりである。
 鈴木登美『語られた自己』は、近代日本の私小説言説を精査して、私小説言説は盛んだったが、結局私小説がまともに定義されたことはなかったとしている。
 私小説の定義は、しかし難しく、たとえば保坂和志の『季節の記憶』のように、一見私小説のように見えて、実は保坂には子供はおらず虚構であるといった例、『若きウェルテルの悩み』のように、はっきりモデルもおりゲーテ自身の体験でもあるのに、最後を自殺にして変形したような例、ラディゲの『肉体の悪魔』や三島の『仮面の告白』のように、虚構だとおもわれていたのが、のち事実だと明らかになるものなどがあるわけだし、『ブッデンブローク家の人びと』のように、自身の家の歴史を描いていても、自分が中心ではないもの、『失われた時を求めて』のように、自分の周囲に起こったことを描いており、自分のことも描いているが、もっと広がりを持つもの、などがあるからである。さらに、それは小説なのか実録なのか、というもっと重大な問題もある。
 だから私は、自分のことを描いたら私小説、と一応仮に定義しておいて、それから色々議論するという方式でよいと思う。そんなことは、SFや推理ものの世界でも日常的にあることだ。ただ私小説の特徴は、「これは××だから私小説ではない」という議論の形ではなく、断言、ないし直感的言明によって「私小説ではない」と言われ、誰も「ちゃんと議論をしろ」と言わないまま推移してきたことにある。

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http://d.hatena.ne.jp/PaPeRo/20090404
久しぶりの切通さんである。
http://d.hatena.ne.jp/maonima/20070930
 で、その説明はここにある。傷心のあまりバナナと牛乳しか摂取できなかった結果だという。

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以前、鬱病の人が「漫画すら読めなくなる」と言っていたので、それは違う、と言ったことがある。「すら」ではない。漫画というのは、絵と台詞や文章とを行き来しなければならないから、実は鬱の人にとっては、普通の直線的な文章よりも読みづらいのである。
 「漫画は読みやすい」というのは、誤解なのである。