二人の竹田出雲

「竹田出雲」は、少なくとも二人いる。初代と二代目である。初代は『菅原伝授手習鑑』の作者筆頭、二代目は『義経千本桜』『仮名手本忠臣蔵』の作者筆頭である。ただ、実際に作者の中核にいたのは、並木千柳(のち宗輔)、三好松洛である。
 以前、橋本治が『考える人』に浄瑠璃の話を連載していた時、二人の竹田出雲を一人だと勘違いしているのに気づいて、編集者に伝言を頼んだ。しかし、今回また連載が始まったのを見ていると「近松門左衛門近松半二の間に竹田出雲がいる」とあって、やっぱり一人だと思っているようなのだ。しかも、門左衛門と半二の間、といっても、一般的には宗輔を挙げるものだが・・・。

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さて、妹尾好信『王朝和歌・日記文学試論』(新典社、2003)に入っている「『蜻蛉日記』と『更級日記』の執筆契機考」(初出1989)を見てきた。しかし骨子はもちろん今西が書いているのと同じで、『蜻蛉日記』は兼家への恨み言を述べているが、兼家の協力があって書かれたものだろう、というもの。
 これは一説に過ぎないが、別にこの説を認めたからといって、『蜻蛉日記』が内面告白の文学だとすることには差し支えはないのである。ダンテやペトラルカが、本当にベアトリーチェやラウラに恋していたか、ではなく、そういう様式の文藝が作られ、社会がそれを認めたということが重要なのであり、しかもこの場合は、『ぽるとがる文』が実際はポルトガル尼僧が書いたのではなくギュラーグ伯なる人物の偽作だったとか(月村辰雄『恋の文学誌』)、『和泉式部日記』は後代の藤原俊成によるものだとか(川瀬一馬)いう偽作説でもない。また近代の私小説でも、虚構説は盛んで、森鴎外の妻しげが、夫の勧めで、結婚する際の不安を描いたものもある。
 その程度のことは、十年以上前の『<男の恋>の文学史』にだって書いてあることだし、近代以前の告白文学に「仮面をつけた真実」の面が強いことは、ライオネル・トリリング『<誠実>と<ほんもの>』に詳しい。そんな、文藝学の初歩を私が心得もせずものを書くわけがないのだ。

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図書新聞』のインタビューで四方田犬彦が、ニューアカで残ったのは中沢と四方田だけだ、とか言っている。あはは。いやもちろん、消えた人は大学での出世の道を選んだ、という話なのだが。
 もっとも、島弘之とか畑中佳樹とか、本当に表舞台からは消えた人もいるよね。

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松本清張の『砂の器』は、野村芳太郎の映画で観ただけだったが、あれはむろん名作である。
 ところが、それ以後のテレビドラマ化は「らい病」を隠蔽していることを知ったのは、確か前に書いた。
 だが今回一念発起して原作を読んでみて驚いた。映画ではなかった第二、第三の殺人が起きていて、その手法が実にけったいなのである。なるほど映画はうまく本筋だけ取り出しているわけだが、それで原作はこんなに長いのか。それにしても、こんな方法で本当に人が殺せるのか。