『年譜年表総索引』(日外アソシエーツ、1998)を入手した。最近、人物の年譜を探すのにわりあい手間取っているからである。もっとも、十年前のものだし、その後講談社文芸文庫が精力的に年譜をつけてくれているから、どの程度役立つかは疑問だ。
 ところでこの本は、とにかく年譜年表の類は全部集めたようで、人物だけじゃなくて、「鶴舞図書館」とかそんな項目まで立っている。まあわしは人物だけでよいのじゃが・・・。
 とつらつら眺めていると、「ホーケー」なる項目を見つけた。『ホーケー文明の曙』(渡辺和博朝日出版社週刊本))に「ホーケー年表」がついているというのだが、それは・・・包茎、である。・・・・・。

                                                                      • -

 石田衣良の「チッチと子」がまた面白い。今回は「直本賞」の選評を読む場面だが、これが、石田が『娼年』で初めて直木賞候補になった時の選評とほぼ同じなのである。「女性時代作家」は主人公の作品に触れず(平岩弓枝)、「コミカルな寓話や反戦小説」の作家(井上ひさし)、「中年女性の恋愛を描かせたら右に出る者はないといわれる女性作家」(林真理子)、「こわもてのハードボイルド作家」(北方謙三)、「戦国時代を舞台にした重厚な歴史小説」(津本陽)、「中国歴史小説の第一人者」(宮城谷昌光)、「短編小説の名手」(阿刀田高)、「最後は若くしてデビューし、五十年近く第一線でスター作家として仕事を続けてきた」(五木寛之)という具合だ。五木のデビューは30代半ばだしそれから40年、この時点では35年くらいだが、まあそれはいい。
 ただしそのほかがちょっと違う。小説では選考委員は十人となっているが実際は11人。そして、残る二人は主人公の小説を無視していた、とあるが、無視したのは平岩一人で、あとは渡辺淳一黒岩重吾田辺聖子だが、いずれも石田の作品には触れている。

                                                                                      • -

 田中純氏のページに「丸山尚士」なる者がコメントして、羽入著は「いい加減さん」だと書いている。落ち着いて書けよ。なんだよ「いい加減さん」って。
 丸山尚士は、『学問とは何か』にも主要登場人物として出てくる。羽入ははじめ、なかなか学者としての才能があると褒めつつ、最終的にはダメなやつだと結論づけている。何がといって、丸山は羽入批判を「匿名」でやっているからである。以下のものだ。

http://www.shochian.com/index.htm

 田中夫人は、匿名での批判は卑怯だ、ということには同意してくださるらしいから、こんな男の言うことには耳を傾けないほうがよかろう。もっとも田中氏本人が「丸山氏のサイト」としてここにリンクしているが、羽入氏も田中氏も丸山尚士のサイトだと認識しかつ公表しているのに「t-maru」としか名乗らない丸山というのは実にふしぎな御仁である。
 しかし丸山尚士というのは何者であろうか? 羽入によると、ジャストシステムで日本語変換システムの研究をしているという。実は私と同学年らしいので、私が持っている卒業予定者名簿で、実家の住所まで分かる。怖いね。
 しかし、不思議な文章を書く人だと思うのは、以下のようなものだ。

つまり、羽入氏については、同じドイツ科出身で、同じくヴェーバーを何らかの研究の対象にしたもの同士(Genossen)です。また、折原氏については、そのヴェーバーについて教えていただいた、まさに恩師です。その意味で、私は第三者による客観的なジャッジ、ということにはまるで資格がありません。ですが、一部なりとも両者に関わりを持つ人間として、証人の役割を果たすことは可能かと思います。
 本論に入る前にまず宣言させていただきますが、そのような中間的な立場にあるといっても、私は羽入氏の側に立つつもりは毛頭なく、100%折原氏側に立ちます。

 Genosse というのは、仲間、同志という意味だが、何? 研究対象が同じだと仲間になるの? 気持ち悪い。ドイツ文学などをやる連中はよく「ゲルマニスト」などと称するのだが、これも気持ち悪い。私は最初、ナチスかと思ったよ。しかもこの文章、第三者による客観的なジャッジの資格はない、と言っておいて、そのような中間的な立場、と来て、しかし100%折原側につく、と言っていて、論理の展開がここだけでまるで分からない。それに、100%どちらか側に立つというのは恐ろしいことだ。だいたい、いくらあっちが悪いこっちが正しいといったって、しかしこの一点はこちらが間違っているとか、だいたいあるもので、私だって羽入が中沢新一まで評価したのは間違いだと言っている。この人、バカじゃないか。
 バカじゃないかと思うのは、麻生建が羽入を脅した件についても、でっち上げだと田中氏コメントで言っているからで、田中夫婦だって、真偽のほどは分からないと言っているのに、いったい何を根拠にでっち上げだなどと言えるのだろう。ある事件の現場にいた、というなら分かるが、麻生が羽入の卒論に難癖をつけた事実はない、などということが、羽入の三年前に卒業した人になぜ分かるのだろう。

                                                                    • -

 田中夫人は、「暴く」という表現を使っている。しかしこれはおかしいのである。羽入の言うことが本当であれば、麻生のしたことは歴然たる「アカハラ」であって、「暴く」ではなく「告発」である。また丸山の言う如く虚偽であるなら、それは「誣告」であり「誣いる」である。
 田中夫人は、学問的批判なら別だと書いておられるが、私が山縣有朋の例を挙げたのは、人格への批判も含めてのことである。山縣有朋は学者ではないのだから。また私が「面白がっている」と思っておられるようだが、私は義憤を覚えたのであって面白がっているのではない。

http://www007.upp.so-net.ne.jp/rindou/kokuhatsu.html
 林道義氏は、かつての東京女子大哲学科紛争について、隅谷三喜男青木茂、久米あつみといった人々を「告発」している。しかし『日本的な、あまりに日本的な』を見る限り、これらの人々を支持する人たちも大勢いるらしい。となると、羽入氏がしていることと林氏がしていることと、どこが違うのか。隅谷三喜男は五年前に死んでいるが、田中夫人は、ここでも、死んだ人を告発したりしてはいけない、と言われるのだろうか。
 私は、羽入氏や林氏の言が真実である限りにおいて、両氏の「告発」を支持する。

付記:田中夫人がさらに追記しておられるが、私にはどうも意味が分からない。「アカハラの時効は三年」というのは何のことであろうか。刑法に「アカデミック・ハラスメント罪」というのがあるのだろうか。資料に基づき、というのは文字資料のことであろうか。では、かつて誰それに迫害されたという「証言」は意味がない、信用できないとおっしゃるのだろうか。それならそれで、羽入氏著を読んだ上で、羽入氏に確認したらどうかと言っているではないか。なお20年前のことだと記憶が定かではない、と言われるが、私は20年前のことでも明晰に覚えているし、では林道義氏など、さらに昔のことを書いているわけで、『日本的な、あまりに日本的な』の時点で14,5年はたっている。もとより私は、死んだ人を告発してはいけないとは思っていない。告発しているのは東京女子大であると言われるが、それは刑法上の告発では、当然ないわけで、それなら『日本的な、あまりに日本的な』は告発ではなかったのか。それは資料に基づくものなのか。私にはどう見ても、久米あつみ、青木茂といった人たちが、不正をした、と告発しているとしか見えないのである。
 何度も言うが、事実であるなら、悪いのは麻生であって、どうかどうか、などと言われても、羽入氏がそう書いているのだから、どうかどうか、と言うのは私のほうである。羽入著は読んだのか、鍛冶哲郎に電話はかけたのか。あるいは三島憲一や恒川隆男に、当時のドイツ科の内情を訊いたのか。田中夫人の言は次第に詭弁の域に入りつつある。
 なお田中夫人は「曝く」と書いているのだが、これは「さらす」という字で、あばくと訓じるのは見たことがない。