羽入辰郎と市野川容孝

 羽入辰郎の『学問とは何か』(ミネルヴァ書房)という大著は、先の『マックス・ヴェーバーの犯罪』に対する折原浩一派の執拗でかつヴェーバー教に凝り固まった攻撃への反論の書である。実に分厚い。
 その中に、本論とはとりあえず無関係なエピソードとして、1984年の春、山中湖で起きた、東大のオリエンテーション合宿の際の五人の死亡事件のことが出ている。羽入は埼玉大学を出てからいったん精神科のソーシャル・ワーカーとして働き、東大に再入学していたから、当時31歳になっていた。そしてこの事件の際、救助の陣頭指揮をとったという。
 そこに「市川芳孝」という名で、ボートに乗っていながら助かった当時の二年生が出てくる。仮名としてあるが、今では駒場で医療社会学を教えているとあるから、市野川容孝以外ではありえない。市野川は64年生まれである。この事件当時、私は英文科の三年生になったところだった。
 酒に酔って深夜、ボートで、未だ寒さの残る湖へ漕ぎ出したのだから、乗っていた者全員が愚かであることは言うまでもない。その中に、市野川もおり、市野川がふざけて、手や足で水をパシャパシャやり、「おい、やめろよ」と言われたのにやめなかった。それが転覆の原因である、とここには書かれている。さらに、半ば凍りついた状態で助け出された学生に対して蘇生の措置が施されていた時に、市野川が「そんなことじゃだめだ」とか言って熱湯をかけたために、心臓ショックで死んでしまった−のではないかという羽入の推定も書かれている。ただこの行為については、善意でしたことだろうと羽入も書いている。
 しかしそれから後、帰路についたバスの中で、二年生から一年生に対して緘口令が敷かれ、調査に当たった平川祐弘先生は、それを見抜き、どうも緘口令が敷かれているようだ、と口にしたとある。市野川は責任を追及されておかしくなり、羽入のマンションを訪れて、中へ入れてもらえないため公衆電話からかけてきて、僕は記憶喪失なんです、と言ったという。
 羽入はそれから、真相究明の調査を続けたが、自治委員の某から脅迫を受けたり、学部長のAから、「そんなことをしていると東大に居られなくなりますよ」と言われたりしたという。しかし結局、市野川は書類送検になったというが、むろん不起訴になったのだろう。
 羽入は、五人殺して医療社会学とは皮肉である、と書いている。私は殺したとは思わないが、軽薄な若者であったことは間違いあるまい。してみると、駒場社会学というのは碌なやつがいないことになる。佐藤俊樹瀬地山角、そして市野川である。
 いったい「中沢事件」をへて、東大教養学部はどうなったのであろうか。私の見るところでは、碌なことにはなっていない。
 (しかし羽入の文章では平川先生がかっこ良すぎる)
 羽入著にも事実誤認があって、折原浩が東大相関社会科学で四十年も教えて一人のヴェーバー学者も育てなかった、とあるが、相関社会科学は1978年の創設であり、折原がそこで主導的立場にあったかどうかすら疑わしい。

付記:私はふと、市野川が書類送検だけで不起訴になったのは、未成年だったからではないかと思いついた。だが調べてみると市野川は3月始めの生まれであり、当時二十歳になったばかりであって、それはありえない。成人として堂々と不起訴になったのである。