中原昌也という作家は、文藝雑誌の一月号全てに小説を発表した。それどころか、『en-taxi』にも載せていた。それで読んでみたら、編集者から書け書けと言われて、嫌々小説を書いている、と何度も書いてあった。昔から「嫌々書いている」と言う人らしいから、本音というわけではあるまいが、私は中原の『名もなき孤児たちの墓』というのを頭から読んだら、似たような文章が重複して出てきたから、何だこりゃ、全然推敲していないんではないかと思って放っておいた。その後、野間文藝新人賞をとったので驚いたが、芥川賞候補になったという「点滅…」だけちゃんと読んだが、別に面白くもなんともなかった。
さて、私の場合は、せっせと小説を書いてはいるのだが、雑誌が載せてくれない。もっとも、全文藝誌に持ち込んだというわけではない。何しろ、『新潮』『群像』『すばる』『文藝』は、評論やエッセイすら依頼を受けたことがないから、いわんや小説なんか載せるわけがないのである。「山室なつ子」は一年くらい前に書いて、三箇所くらいに見せたかな、結局載らずじまいだったので、ここに載せた。
傍目八目というから、まあ要するにダメな小説なのだろう、とは思うのだが、もうここ三十年くらい、芥川賞受賞作などを読んでもちっとも面白くなくて、最近でいえば青山七恵と絲山秋子の受賞作くらいが、まあ面白かった。ただし絲山は、他の「海の仙人」とか「袋小路の男」とかを読んだら、セックスレスばかりなので辟易した。だから、どこにどう基準があるのかよく分からないのだが、文学研究者として言えば、文学作品に普遍的な基準などというのはないのだ。
私が、小説を書いて行きたい、と言うと、たいていの編集者は困惑して、評論を書かせようとする。そういえば昔、中島梓がコリン・ウィルソンを評して「あの人も、小説さえ書かなきゃいい人なんですがねえ」と言っていた。
しかし、『評論家入門』で、ネット上に書くだけで満足せず活字にするよう努力せよ、と書いた以上、いずれは活字にする。島村利正や小沼丹や結城信一のように、何が何でも書いて活字にする。
(活字化のため削除)
(小谷野敦)