「D」の謎

 糸圭秀実の「歴史修正主義の基本構造」(『批評空間、第三期第一号、『JUNKの逆襲』所収)の冒頭で、柳美里石に泳ぐ魚」裁判を論じて、裁判もへずに抹殺された文学作品はほかにもある、と書いているが、そこであげられているのは杉山清一「特殊部落」、今井正の映画「橋のない川」、そして古賀忠昭である。ところが「橋のない川」、あっさりDVD化されたので、借りてきて観た。この原作は、のちに東陽一によって再映画化されていて、これは前からレンタルヴィデオにもあった。今井作品は第一部と第二部に分かれている。何がいけなかったのかといえば、たぶんあの言葉が濫発されているからだろう。それにしても、糸圭が言うほど「下らない」とは、私は思わなかったなあ。伊藤雄之助の迫力もさることながら、その後はほとんど声優としての活躍が中心になった寺田路恵が柏木先生を演じていて、声がきれいなのは言語に絶する。しかも、一般的な美人とは違うが何とも美しい。
 ところで糸圭があげているのは、みな「同和」系のものである。しかし「石に泳ぐ魚」はそうではないのだから、どうもこういう例をあげるのはなんか変だ。あげるとするなら、それこそ裁判も経ずに絶版になった臼井吉見の『事故のてんまつ』だろう。これは「和解」で絶版にしている。しかしその後の『落日燃ゆ』裁判で、死者の名誉毀損は成立しないという判例が出ているのだから、戦っていれば勝訴もありえたのだが、あまり論じられない。まあ古書店ですぐ手に入るわけだけれども。
 しかしそうではなくて、雑誌には載ったのだが、モデル問題が起きて単行本にならなかったとか、果ては、雑誌にさえ載らなかったといった小説があってもおかしくない。そういうのを探し出したらどうだろうか。

 話は変わるが、私が阪大にいたころ、「同和委員」というのがあり、私は一年目にこれになった。年に三回くらい、映画を観たり講演を聴いたりするだけのぬるい仕事だったが、その委員を決める際、委員一覧が書かれた紙に、「主任」「教務」「議長」などと書かれてあって、決まったら名前を書き入れるようになっていたのだが、「同和」はただ「D」とのみ書かれていた。外部に流出した時のためだろうが、なんで「同和」と書くとまずいのだろう、と思ったことであった。
 (小谷野敦